本能寺と咸臨丸

先日、京都での日米修好通商条約勅許奉請の使節の史跡めぐりに参加した。 使節の正使・老中首座堀田正睦の宿舎は寺町の本能寺で、ここが朝廷との交渉の場だった。 通商条約関係でこの場所を訪ねたとき、実は因縁めいたものを感じたのだった。 本能寺を創建した日隆上人は、高祖母小杉としの実家・小杉家と縁続きになる。通商条約の批准書交換の遣米使…
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永井荷風、永井智子と永井路子

永井荷風と、永井智子と永井路子(1925年3月31日-)のお話 明治時代に長府毛利家の屋敷があった麻布市兵衛町に、時代は下って大正8年(1919)に永井荷風(本名永井壮吉)が偏奇館を新築し移り住む。 そして旺盛な創作活動のなかで、才能豊かな荷風は昭和13年(1938)に作曲家菅原明朗と歌劇『葛飾情話』を作って浅草オペラ館で上…
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岩倉村史跡巡り

昨日、大阪龍馬会主催の岩倉史跡探訪に参加して、左京区岩倉村を廻ってきた。岩倉具視には関心があり、なかなか得難い史跡めぐりだった。 最近、幕臣の京都での安政5年(1858)の通商条約勅許奉請の活動に興味があり、そのときの朝廷側の対応が気になっている。 その朝廷側の中心人物は鷹司政通であり、久我建通を介して、鷹司にすり寄っていた岩倉…
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笑点大喜利と帆船海王丸

僕の好きなものに、笑点の大喜利がある。 居並ぶ落語家の当意即妙の受け答えが面白い。 最近は昔の大喜利も火曜日に放映されるので毎回楽しみにしている。 今回の火曜日の放映は、驚いたことに2010年5月2日(日)の、初めて観る大喜利だった。 未見のはずで、実は5月2日は僕は日本にいなかったのだ。 この大喜利の放映時間が1730と…
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通商条約勅許使節の史跡巡り

先日、京都にて史跡めぐりに参加してきた。 テーマは、日米修好通商条約の勅許を得るため、安政5年2月4日~4月5日まで滞京した幕臣たちの跡をたどること。 今回の史跡めぐりは、岩瀬忠震が宿泊した瑞泉寺での、有志による岩瀬忠震・橋本左内顕彰碑の建碑を記念して企画された。 岩瀬忠震は、海防掛目付として開国に向けて中心的役割を演じ、滞京…
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徳川慶喜の筆「誠」

先日、徳川慶喜の書いた「誠」の書が 広辞苑編者の新村出旧宅で発見されたと報道された。新村出の養父猛雄は慶喜に仕えていたため、新村家で受け継がれたと考えられる。 「誠」は、慶喜にとってはまことに身近な文字だったのではないだろうか     (新村出記念財団提供) 儒教の書「中庸」に 「誠者天之道也、誠之者人之道也」(誠は天の道な…
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九州2日目 長崎

10/21朝、小曾根家を訪問し、貴重なお話を拝聴する。 その後、市内の幕末史跡をめぐり、また5年ぶりに先祖のオランダ通詞の今村家と楢崎家の墓地にも参る。   楢林鎮山                         晩は開陽丸子孫の会の長崎旅行に合流し、料亭二見にて会食。 長崎での幕末史跡めぐりは2度目…
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藤沢周平しのぶ会「寒梅忌」

庄内日報によると、20回を節目に終了するらしい。 鶴岡出身の作家・藤沢周平をしのぶ会「寒梅忌」が1月27日(日)、鶴岡市中央公民館市民ホールで開かれる。鶴岡藤沢周平文学愛好会(萬年慶一代表)が一般公開の顕彰事業として、藤沢さんの命日(1月26日)の直近の日曜日に開催してきたが、今回の20回の節目を最後に終了する。 20回寒梅…
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歌舞伎町の思い出

事件や噂をよく耳にするが、僕にも懐かしい町だ。   写真は1960年2月撮影なので、僕の小学校6年3学期当時の風景 僕は父の都合で小学校は前橋で入学し、その後、川崎、下落合、川崎と何回も転校したのだけれど、 最後の学校は川崎の登戸だった。 ちょうど60年前になるが、小学校6年の夏に、住んでいた登戸から田町に引っ越した。 …
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適塾にて

昨日、適塾関係で調べものをした。 まず、大阪府立中之島図書館で資料を見て、適塾と、近くの除痘記念館を廻る。 天然痘(痘瘡)は、昔から人類に惨禍を齎したが、昭和55年(1980)にWHOが根絶を宣言した。それは、英のジェンナーが1796年に牛痘種痘法を開発したことによる。 佐賀藩医・楢林宗建は、日本にジェンナー式の種痘を普及…
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梅原猛氏と 原三溪

梅原猛さんがお亡くなりになった。 小杉家の遠縁にあたる原三溪とは、若干関りがある。 小杉家と原三渓との縁は以下の通り。 小杉直吉は、慶応4年4月の江戸開城後、5月に徳川家の駿河国への移封に従い沼津に移り住む。のちに新政府に仕官し大審院判事、名古屋控訴院長を歴任してから晩年再び駿河に戻り、慶喜の能・謡の師匠としてのお相手も務めな…
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兼高かおるさんと 三吉友子

兼高かおるさんがお亡くなりになった。 「兼高かおる世界の旅」、僕の世代で知らない人はいないだろう。 心からお悔やみ申し上げます。 ところで、兼高さんは香蘭女学校出身で、黒柳徹子の先輩になる。 香蘭女学校は歴史が古く、僕にも懐かしい学校だ。 明治初期に日本伝道を開始した英国国教会は聖ヒルダ伝道団を創設し、その事業の一…
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2019年の予定

明けましておめでとうございます。 昨年も良き出会いがあり多くの知人ができ喜んでいます。 皆様には大変お世話になりました. 今年もよろしくお願い致します。 今年は早いもので、趣味の世界に入り10年目になります。 趣味のひとつの先祖調査は、昨年大いに進展をみました。 ①正井家について 昨年8月に人形浄瑠璃を鑑賞する機会…
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九州1日目 佐賀

1年前の九州史跡めぐりを記録しておく。 10/20佐賀、10/21-22長崎、10/23-25鹿児島。 佐賀と鹿児島は今まで未踏の地だった。 10/20、先ずは日本の近代化の先駆けとなった佐賀から。 佐賀藩は、貿易の窓口の長崎警備を幕府から命じられ、福岡藩と隔年交代で担当していた。そのために、長崎からいち早く正確な海外情…
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お龍の馳せ報知の姿は?

伏見寺田屋にて坂本龍馬と三吉慎蔵が幕府の捕吏に襲われたときに、お龍が危機を二人に知らせた。      画像は、2018/9/2放送 「西郷どん」より このときの風呂場からの馳せ報知のお龍の姿を直接知っているのは、お龍本人、一緒に風呂にいた殿井力子、目撃した龍馬・慎蔵の計4名と、数人の幕吏に限られる。 ⑴ お龍 …
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彰義隊と雁鍋

最近は上野戦争当日の彰義隊の戦いに関心がある。 『史談会速記録』第74輯記載の明治31年の小野保の話によると、 膠着状態のこの戦争の流れを大きく変えたのは、滋野直臣という兵士の空腹だという。 腹を満たしに黒門口傍の雁鍋に入って二階に上がってみると、手こずっていた山王台の彰義隊の砲台がよく見える。 そこで、この二階から十四…
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文楽と 植村文楽軒

先日8月7日に、文楽を鑑賞する機会があり国立文楽劇場を訪ねた。 開演する前に、資料展示室の展示を拝見したが、ここには文楽の歴史や、太夫・三味線・人形の三業について、基本的内容をわかりやすく紹介している。 このとき、文楽の歴史の年表を見て、思わず目が点になり立ち尽くしてしまった。 年表の真ん中辺りの、「文楽軒の登場(文楽が代…
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小杉雅之進と三吉慎蔵、および前田常三郎

小杉雅之進は、幕臣で蒸気方手伝として咸臨丸で渡米している。 三吉慎蔵は、長府藩士だが、龍馬からの遺言で龍馬暗殺後、自宅でお龍を預かっている。 二人は住む世界が全く違うが、接点がある。 前田常三郎だ。 前田常三郎は、晩年「坂本龍馬大明神」と書いた自筆の書を前によく拝んでいたという。下部には、ワイルウェフ号沈没で亡くなった亀山社…
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河島由路と三吉慎蔵、および輪王寺宮

河島由路は、幕臣で賄方、七拾俵五人扶持の小臣。彰義隊に参加した。 三吉慎蔵は、寺田屋にて龍馬と共に幕吏に襲われからくも脱出に成功する。 この二人の接点が、輪王寺宮。 河島由路は、屋敷は本郷湯島天神下仲坂下に所在し台所の床下に生簀があって常時生魚が遊泳し、将軍が望むと生簀から鯉などを供していた。 近くに、湯島天神の男坂を下った…
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船越清蔵と小山六郎、および澤主水正宣嘉

船越清蔵は、長州清末の国学者であり、京・大津に住んで尊王家として活躍した。 小山六郎は、世を憂う但馬の豪農の一人として生野の変に参加し、破陣後長州へ遁れ長州の内戦などに参加する。 全く異なる二人だが、接点が一つだけある。 澤主水正宣嘉だ。 船越清蔵は、文久2年(1862)8月8日に、萩にて藩主に御進講をした後、故郷に帰る帰途…
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