春琴抄とその時代

谷崎潤一郎の春琴抄を読むと、その時代背景の描き方が気になる。 春琴が生きた時代と場所は、江戸時代末期から明治にかけての幕末を含む大坂だった。 春琴は、大坂道修町の業種商の次女として、文政12年(1830)5月24日に生まれ、明治19年(1886)10月14日に脚気が原因で58歳で死亡する。 盲目となった春琴の身の回りの世話を献…
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幕府軍艦 開陽丸

今年は、箱館戦争終結150年になる。 一連の戊辰戦争の最後の戦いが、五稜郭の旧幕府軍の降伏で幕を閉じたのだが、 この戦いでの旧幕府側の大きな損失は、当時の最新鋭軍艦・開陽丸の江差沖座礁沈没であった。 オランダで建造されて進水4年目、横浜に回航されて3年目に沈み、活躍の機会は少なかった。 2015年に、この開陽丸建造150…
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炭酸水

美酢は、ザクロが旨い もう3か月ほど前から飲んでいる。 飲み方にはいろいろあるが、炭酸割が好みに合う。 特に暑い日々が続いたこの夏は、日に何回もいただいた。 ちょっと前に、近くの店で大安売りがあったときに10本ほど仕入れたのだが、すでに半分を飲んでしまった。 ま、とにかくこの韓国製の飲料は口に合っている。 炭酸というと宝…
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魁(さきがけ)

天誅(忠)組の義挙は、明治維新の魁(さきがけ)とよくいわれる。 「魁」を辞書で引くと以下のように説明がある。 [音]カイ(クヮイ) [訓]さきがけ ① 人の長となる人。かしら。頭領。首領。首長。首魁。「魁首/巨魁・首魁」〔書経‐胤征〕 ② 堂々として大きい。「魁偉・魁傑」 ③ 他の者の先頭を行くこと。 他に先んじること…
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UFOの正体

世界には、機密のため非公開で、絶対に入れない場所がかなりある。なかには、軍事利用を主目的とする先端研究のための民間施設も数多い。 米国の航空機製造会社のスカンクワークスもその一つだ。 ここは、ロッキード・マーティン社の極秘開発部門で、日本と戦っていた1943年に創設され、「飛行の概念を常に塗り替える革新的な航空機」の開発をモットにし…
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銀行に眠る幕府宛請求書

2010年5月、田中正明氏とはサンフランシスコで会っているのだが、この人との話の内容を忘れかけている。 帆船海王丸で航海したとき、到着後の滞米中は航海日誌とは別にメモを残しておいたが、それが見当たらない。 5/5 咸臨丸の航跡をたどった海王丸が30日間の航海を終えたあと、1700から船長主催のレセプションが開催された。 このと…
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幕臣の小杉直吉・雅之進兄弟の生き方

今月8月は、21日が小杉雅之進、24日が小杉直吉の祥月命日。 小杉家は、南北朝時代の越中守護、桃井播磨守直常を始祖とする。  絵には「ももい なをつね」とあるが、正しくは「もものい ただつね」 直常の6代あとの桃井三郎四郎直宣の嫡子に、桃井尚芳(なおよし)が生まれる。 小杉村に潜居していた尚芳は、元和3年(1617)に加…
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船越清蔵の知名度

幕末の船越清蔵を調べているのだが、 なかなか書かれたものが少なく、評伝としての堀哲三郎『船越清蔵先生』が良本といえるのだろう。 この本には、三吉慎蔵との関係は特には記述がないのが残念だが、 小坂土佐九朗の二男として三吉家に養子に入った慎蔵は、養母喜久との縁で、船越清蔵とは縁続きになる。 その船越清蔵は、萩本藩の支藩清末藩に生…
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文楽の『仮名手本忠臣蔵』

昨日の読売の文化欄に「文学 文楽 うその世界へ」と題し、直木賞受賞の大島真寿美さんと人形遣いの桐竹勘十郎さんの対談が載っている。 大島さんは4年前に初めて文楽「妹背婦女庭訓」を観劇する。そのとき、人形遣いの桐竹勘十郎さんの操る「お三輪」に衝撃を受け、『渦 妹背婦女庭訓 魂結び』を書く。これが第161回直木賞に輝いた。 なかなかいいお…
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海王丸と宝塚歌劇

この二つを並べても関係はないように見える。 ただ、ここでいう海王丸は、明治24年(1891)2月今古堂で出版された小説『海王丸』のこと。 著者は半井桃水。 半井家は、表向きは対馬藩医の家柄でもあったが、実際は釜山倭館に代々常駐する対朝鮮外交官の役割を担っていた。桃水は、万延元年(1861)対馬藩に生まれ、父の仕事の関係で少年期…
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宝塚歌劇と近代文学

東京宝塚劇場にて本日から、「壬生義士伝」が公演される。 歌劇では小林一三の意思もあり、文芸作品を演じることが多い。 たとえば、坪内逍遥「桐一葉」、樋口一葉「たけくらべ」、 泉鏡花「天守物語」、谷崎潤一郎「春琴抄」、 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、太宰治「グッドバイ」、 山岡荘八「宮本武蔵」、司馬遼太郎「燃えよ剣」、 三島由紀…
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オランダ通詞の人々

2年前に開陽丸子孫の会による長崎歴史探訪の際に、講演会が開催された。 講師は『通訳たちの幕末維新』の著者・木村直樹氏。講演の中で、オランダ通詞については今村家と楢林家についても言及され、大変興味深く拝聴した。 長崎では、いつもオランダ通詞を調べることにしている。 幕末に興味を持ってから最初に訪ねた7年前は今村家の墓地を調べた。…
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久坂玄瑞と船越清蔵

久坂玄瑞の備忘雑録は5冊が伝わっている。 その1冊は「筆廼末仁満爾」(文久壬戊十月上浣日)とある。 その中の或るページに「船翁墓碑之事。」とメモ書きが記されている。 これは、文久2年10月上旬からの覚書に記した短いメモだが、松陰始め一門が舩翁と尊称した船越清蔵の墓について、玄瑞がその建碑に心いたしていたことを表している。 …
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三吉慎蔵の鹿児島訪問

三吉慎蔵が、鹿児島を訪れたときに宿泊した場所を調べている。 慎蔵は、明治20年(1887年)12月6日に鹿児島にて薨去された島津久光公の国葬に参列する。北白川宮能久親王の奥方は久光公の養女でもあり、家令として宮の名代を務めた。 12月7日に横浜を出港、翌日神戸に寄港したのち、10日に神戸を出港し12日に山川港に入り着港する。 …
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慶応4年1月の会津藩殉難者

鶴ヶ城天守閣郷土博物館の平成30年度企画展の図録『一八六八年の会津藩』を開いて、驚いたことがある。慶応4年1月7日の条に「京都、金戒光明寺を守る約百人の部隊壊滅」と記されている。 薄見寡聞の者なので誤謬があればご指摘いただきたいが、従来の数々の会津藩殉難者名簿にこの百人の記録は皆無だと思う。 会津藩は、慶喜公が慶応3年12月12…
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生野挙兵での小山六郎の役割

今月発行の『歴史人』6月号は「幕末の事件史」の特集号で、その一つとして生野の変を扱っている。 全体の記述は、時系列が逆であったり、事実と異なる記述が目につく。 参考に「生野の変 主な決起メンバー」のリストが掲載されているが、澤宣一・望月茂共著の『生野義挙と其の同志』昭和7年に依っているようだ。 実は前から不思議に思っていたのだ…
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西郷の硯

ある硯が気になっている。 三吉慎蔵が西郷吉之助に贈った赤間関硯で、今は酒田の荘内南洲会が所蔵している。 月に波上のうさぎが刻されている。よく使われた跡がみてとれる。 慎蔵が西郷に贈ったことは記録が残っている。 『三吉慎蔵日記』に、 「(慶応2年3月)七日夜馬関ヘ着ス。直ニ通船ニテ拙者ハ上陸シ鶏其他赤間関硯等ヲ購シ、西郷…
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文楽への道

文楽の名のもとになった植村文楽軒(本名:正井嘉兵衛)が経営した最初の芝居小屋と、二番目の小屋の跡を訪ねた。 文楽軒は、寛政(1789-1800)の頃、大坂に出て高津橋南詰西の浜側に浄瑠璃稽古場を開く。 この高津橋は、江戸中期、西高津新地の開発に伴って 道頓堀から開墾された高津入堀川にかかる橋だ(『浪華名所獨案内』より、高津付近)…
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彰義隊墓前法要からの雑感

今日5月15日、彰義隊の墓前法要が行われた。      (上の写真2葉は昨年の撮影)   この日は例年、上野に出かけているのだが、今回は残念ながら関西で用があり出席が叶わない。 この10年間で、一昨年のケガでの不参加を含め2回欠席したことになる。 僕が墓前法要に参加するのはもちろん訳がある。 幕臣の高祖父・河島由路は…
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適塾の謎

先日たまたま適塾の前を通った。去年の大阪北部地震による災害復旧工事のため開館していなかった。適塾はいつもこのアングルからの撮影が多い。 思えば、ぼくと適塾との付き合いは長い。 半世紀前になるが、1970年に勤め始めた会社の本社近くに旧瓦町適塾があり、本社の裏の古手町には除痘館跡があった。また40年後の2008年に本社が今橋に移転…
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