史書を訪ねて 大隈重信国会開設奏議

今週の史書を訪ねては、「大隈重信国会開設奏議」
「明治十四年の政変」の発端になった、明治14年3月の大隈による国会開設の意見書。IMG_4968.JPG

明治政府は、近代国家への移行を進める中で、反政府運動としての自由民権運動を警戒しつつも、他方で立憲政導入の問題について諸参議に意見書を命じていた。
立憲政導入について、明治12年12月に山県有朋の建議を最初として、明治14年にかけて参議たちの建議が続ていく。
意見書はいずれも、導入について漸進論に立っている。
しかし、伊藤博文、井上馨、大隈重信の三人は、憲法制定について開明的立場をとり、近い将来に国会を開設するべく政府内の議を纏めようとしていた。
そして国会開設に備えて立憲思想の普及を図るために、政府から新聞紙を発刊する計画を立て、明治13年に福沢諭吉にこの新聞を主宰して協力するように求めた。
福沢は井上馨から三人の参議の意向を聞き、かつ国会開設の暁には「如何なる政党が進出するも、民心の多数を得たる者」に政権を委ねる考えであることを聞いて、自説に全く合致するとして新聞発行の件を引き受けることにした。

参議が立憲政について意見書を出すなかで、大隈重信からは提出がなかったので、左大臣有栖川宮は天皇の意を受けて大隈に督促した。
大隈は自分の考えを口頭で親しく上奏したく、書面では意を尽くしがたい上に世上に洩れる惧れもあると述べる。
しかし書面にて提出するようにと内意があり、明治14年3月に有栖川宮の手許に意見書を提出する。その際、意見書を他見させぬようにとも強い希望を述べた。
それが、今回の「大隈重信国会開設奏議」。骨子は、英国風の政党内閣制を採用すべきと主張したものであった。しかも、翌年末の議員選挙、翌々年始めの国会開設という性急な内容だった。

有栖川宮から大隈意見書を内示された右大臣・岩倉具視は「恐るべき廉がある」と太政大臣・三条実美に漏らし、三条を通じて筆写した参議の伊藤博文は「意外の急進論で、魯鈍な自分は従えない」と反発した。伊藤は一時は辞意を表明したが、結局自重し事は一応落着したかにみえた。

大隈の意見書の内容が、明治14年4月25日発行の「交詢雑誌」45号に掲載された交詢社有志による私擬憲法案と似ていることから、伊藤らは、大隈の背後には福沢諭吉がいると邪推する。IMG_4985.JPG
ところで、伊藤らは、当時起こった開拓使官有物払い下げ問題に端を発した世論の沸騰も、大隈や福沢門下らの勢力がいると疑念をいだき、
結局、大隈は参議筆頭から免官されてしまう。
同時に、福沢の推挙で大隈の創設した統計院に雇われた慶応出身の若手官僚の尾崎行雄、犬養毅らも一斉に辞職し、大隈・福沢門下生の官界からの一斉追放という事態に進展した。 

福沢は新聞発行の準備を進めていたが、大隈が罷免されたことにより、新聞発行は立ち消えとなる。福沢は新聞発行が立ち消えになった理由を再三伊藤博文・井上馨に問いただす書簡を送っているが、十分な説明はなく、以後、伊藤・井上とは絶交状態になっていく。IMG_4979.JPG


これが、「明治十四年の政変」とよばれ、福沢の理想とする英国モデルの国家構想の夢は潰え、伊藤博文らを中心とする薩長派の政権が確立し、この政権によって日本は君権のきわめて強いプロシア流立憲君主制への道を歩むことになる。

参考:
「未来をひらく福澤諭吉展」図録
「明治政治史」岡 義武

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