船越清蔵の知名度

幕末の船越清蔵を調べているのだが、
なかなか書かれたものが少なく、評伝としての堀哲三郎『船越清蔵先生』が良本といえるのだろう。
この本には、三吉慎蔵との関係は特には記述がないのが残念だが、
小坂土佐九朗の二男として三吉家に養子に入った慎蔵は、養母喜久との縁で、船越清蔵とは縁続きになる。

その船越清蔵は、萩本藩の支藩清末藩に生まれるが若くして藩を離れ、天下を家とする処士になる。
ただ清蔵は、同時期に活躍した梅田雲浜とくらべても知名度は小さく、
『船越清蔵先生』によれば、
「明治維新の大舞台開幕の裏方を勤めた人で、表舞台に立ってはでに見得を切った人ではなかった。それは、船翁自身の性格にもよるが、その学問と信念がそうさせたことと、小藩の処士であり、舞台が終始長州国外であったために、伝えられることが少なかったからである。」とある。

たとえば清蔵がよく知られていないことは、
wikipedia「船越清蔵」に唯一引用されている『東北文化研究室紀要』50巻の「幕末平田国学と秋田藩 : 文久期における平田延太 郎(延胤)の活動を中心に」という論文でもわかる。
この論文の中では清蔵について、 「また(平田延太郎が)懇意の長州藩士である小出勝雄、門人の徳山藩士船越清蔵等より長州藩内の情勢、とりわけ長井雅樂の藩内における位置付けについて探索を行っている。」との記述がある。
長州藩士である小出勝雄と、門人の徳山藩士船越清蔵を別人としており、船越清蔵を徳山藩士としている。清末の菊川岡枝村小出で生まれた清蔵は、小出勝雄の別名を使っていたし、藩士になったことはない。

まだまだよく知られていない人物なのだ。
ただ、幕末の志士が多く眠る京都の霊山で、最初に神葬祭で葬られた人物でもあるので、僕としては興味が尽きない。

清蔵が著した書物は多いが現在目にすることがほとんどできない。同時代人の書評が伝わるだけである。
その書物の中に、『井蛙録』、『一夕話』、『海防三策』があり、安政元年に三条実万公に供覧し感賞を受けた、と伝わる。
おそらくこのことが縁で、三条実万は清蔵より早く安政6年に没しているが、3年後に死去した清蔵の墓に刻まれた「精勇船越守愚之墓」の「精勇」の文字を授けている。DSCN9200.JPG

霊山に眠る志士で、名前に冠しているのは清蔵だけである。


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