九州1日目 佐賀

1年前の九州史跡めぐりを記録しておく。
10/20佐賀、10/21-22長崎、10/23-25鹿児島。
佐賀と鹿児島は今まで未踏の地だった。

10/20、先ずは日本の近代化の先駆けとなった佐賀から。
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佐賀藩は、貿易の窓口の長崎警備を幕府から命じられ、福岡藩と隔年交代で担当していた。そのために、長崎からいち早く正確な海外情報を入手し、海外事情に精通できる立場にあった。
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そして、貿易相手のオランダ、中国との関係は比較的穏やかな時代が続いていたので、佐賀藩は長崎警固の人数も費用節減から勝手に減らしていた。
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ところが、文化5年8月15日(1808年10月4日)、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、当時敵対していたオランダ人2名を人質にして、燃料や食糧を要求する事件が突発する。
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この事件になすすべもなかった長崎奉行松平康英は切腹し、長崎警固の規定人数を勝手に減らしていた佐賀藩の家老数人も責任を取って切腹、佐賀藩9代藩主・鍋島斉直は幕府より100日間の閉門に処された。

この事件を切っ掛けにとして幕府は外国に対する警戒心を高め、一方また佐賀藩も天保元年(1830)に鍋島直正(閑叟)が10代藩主になり藩政改革を行なって財政を再建し、海防の充実に力を注ぎ始めた。
そして10年経ち、中国大陸で極めて由々しき事態が発生する。アヘン戦争(天保10年―12年、1840-42)だ。
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このアヘン戦争によって、日本中で海防意識が高まる。例えば佐久間象山は清国敗北を目のあたりにして、天保13年(1843)に海防掛の要職にあった藩主真田幸貫に意見書を上申する。「外夷に対抗するには軍事力が必要であり、台場(砲台)を築き兵器と船舶の製造に注力しつつ、先ずは海外に軍艦を発注し、西洋兵学を積極的に導入しながら海防体制を確立すべき」と。

同じように鍋島直正は老中・阿部正弘に海防の必要性を献策したが、翌嘉永元年12月(1849)の返答で却下された。そこで、欧米列強によるアジア侵攻に危機感を懐いた直正は、西洋と対等の立場になるべく西洋の優れた軍事科学技術の導入を積極的に図ろうと考え、しかも独自に実践していく。
具体的には、長崎警備の体制強化を図るなかで長崎に近い伊王島と神ノ島で砲台(台場)を増設する。
   図は神ノ島、この島の5カ所に台場が作られた
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   神ノ島の四朗島台場図
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   今の四朗島、島の周りは石垣で囲まれている
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そしてその台場に設置すため当時主流の青銅砲をより強力な鉄製大砲に置き換えるために大砲の鋳造を行わんとする。そのために日本初の洋式反射炉を建造する。
また長崎湾外(外目)の砲台の射程外の外国船にも対応するため、洋式海軍の創設と蒸気船の建造や保有を試みるのだった。
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結果的に対外的な危機意識とそれの対応策とが、佐賀藩をしていち早く近代化を進め幕末随一の軍事力を持たせ、維新の原動力の一つとならしめていく。


今回、九州旅行での最初の訪問地として、幕府や雄藩に先駆け、いち早く西洋近代の技術を取り入れた肥前佐賀の歴史の跡をたどってみた。

史跡めぐりをしたのは、以下のコース。
三重津海軍所、佐野常民記念館-->大隈重信誕生地、大隈熊記念館-->佐賀城-->築地反射炉跡-->多布施公儀反射炉跡-->大庭雪斎の墓-->江藤新平の墓-->高傳寺、枝吉神陽・副島種臣兄弟墓地


〇三重津海軍所跡
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三重津海軍所は、佐賀藩の海軍伝習所であり、日本で最初の海軍基地でもある。ここで、軍術、砲術、造船、操船術などを教育し、軍艦の基地となって船舶の保管、管理、修理を行っていた。
この三重津海軍伝習所の創設にあたっては、その前身がある。

幕府は安政2年(1855)に長崎海軍伝習所を開設するが、このとき佐賀藩も多数の伝習生を入所させる。
伝習生130人のうち48人を佐賀藩の派遣生が占め、「粒ぞろいで特に優秀だ」とオランダ人教官にほめられている。彼らの大半は蘭学寮卒業生であり、そこでの厳しい学習の成果が評価されたのだった。
安政5年(1858)には、オランダ人教官の指導のもとで、佐賀藩士は伝習の一環として、長崎にて洋式帆船晨風丸を建造している。
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一方、安政5年(1858)、長崎での海軍伝習を受ける傍ら、そこで得た技術や知識を藩内でも教育するため、「御船屋」のあった三重津を拡張し、海軍伝習機関(当時の記録には「三重津」または「御船手稽古所」)を設置した。

そして翌安政6年(1859))には幕府の長崎海軍伝習所の閉鎖に伴い、同伝習所で学ばせていた多くの佐賀藩士の士官教育を継続するため、三重津船屋の西一角に、海軍伝習機関を拡張する。
同時に、付属地を艦隊根拠地として整備するとともに、所有する洋式艦船(晨風丸、電流丸、飛雲丸)の修理を行う修理施設を整えた。
かくして三重津は、修理作業場やドックを備え、役所、海軍教育、造船および修船などの機能を備えた「海軍所」となっていく。
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海軍所では、航海、造船、鉄砲等の学科や技術教育が行われたほか、蒸気船・西洋式帆船等の根拠地として蒸気船の修理・製造が行われ、オランダ製の木造帆船である「飛雲丸」や木造スクリュー蒸気船である「電流丸」、木造外輪蒸気船「観光丸」(幕府からの委任)等が運用されていた。
慶応元年(1865)には三重津で国産初の実用蒸気船「凌風丸」を建造してもいる。
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〇佐野常民記念館
佐野常民が、幕末期に佐賀海軍の創設と育成に関わったことから、佐野常民記念館は三重津海軍所跡地に隣接して作られている.。
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佐野常民(文政5年(1823)12月28日 - 明治35年(1902) 12月7日)は僕の尊敬する人物の一人。初代日本赤十字社長として名高い。
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幕末期の経歴に限ると以下の通り。
青年時代、各地の塾で研鑚を積み、嘉永4年(1851)長崎に家塾を開く。
                適塾の姓名録に名が見える
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ペリー来航の嘉永6年(1853)に佐賀に帰り、佐賀藩の精煉方頭人となる。
                精錬所(理化学研究所)の様子
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安政2年(1855)6月に長崎の海軍予備伝習に参加する。同年8月に幕府が長崎海軍伝習所を開設すると、常民ら48名が第一期生として参加する。
この頃、藩主・鍋島直正へ海軍創設の必要性を説く。
安政4年(1857)、佐賀藩がオランダから購入した飛雲丸の船将となり、翌安政5年(1858)、三重津海軍所の監督となる。技術が高く評価され、文久3年(1863)には、三重津海軍所で幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作している。


〇大隈重信誕生地、記念館
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大隈重信(天保9年(1838)2月16日 - 大正11年(1922)1月10日)も僕の尊敬する人物の一人。

大隈重信(天保9年(1838)2月16日 - 大正11年(1922)1月10日)の幕末での活動は以下の通り。
副島種臣の兄の枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の「義祭同盟」に参加した。大隈は義祭同盟への加入をのちに「世に志を立てるきっかけ」と述べている。
安政3年(1856)に佐賀藩蘭学寮に転じた。
文久元年(1861)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。大隈は、長州藩との協力、および幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。
慶応3年(1867)、長崎の佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またこの間、フルベッキから英語を学び、新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きな影響を受ける。また同年、副島と共に将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され1か月の謹慎処分を受けている。


〇佐賀城
佐賀城は何度となく火災に見舞われている。
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江戸末期、藩政は火災で焼け残っていた二の丸を中心に行われていたが、天保6年(1835)の火災で二の丸が焼失する。そこで本丸の再建が行われ政務は本丸に移る。現存する鯱の門・続櫓はこの再建時の天保9年(1838)の完成で、同時に建造された本丸御殿は、明治維新以後は裁判所や学校として利用された。なお、天守は享保の火災以後再建されていない。
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明治7年(1874)、江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり、佐賀城はこの反乱軍に一時占拠された。
この戦闘の際に建造物の大半を失う。なお、鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っている。
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以後、佐賀城址には学校、測候所、県庁など公共施設が次々と建設されていく。


〇築地反射炉跡
鍋島直正は、伊豆韮山代官の江川英龍との間で軍事技術の交流を行う。
江川家は、天保・弘化期に西洋軍事技術の研究をしており、蘭書を教科書に洋式台場・洋式砲台や砲弾の研究開発を行っていた。英龍は嘉永2年(1849)に小型の実験反射炉の試作を行い、高島秋帆から西洋砲術を学んでいた。
嘉永元年(1848)3月以来、両家の交流は活発になり、嘉永3年(1850)1月、佐賀藩士・本島藤太夫は「火術方長」として韮山に江川を訪ね長崎砲台の増設計画について相談をする。また同年3月(同4月頃)再び訪ねて西洋砲術を学んでいる。
そして、直正は嘉永3年6月(1850年7月頃)、砲術研究の担当組織「火術方」を分割して、「大銃製造方」を新たに設け、大銃製造方の長に火術方の責任者の本島藤太夫、副長に杉谷雍介と田中虎太郎を任命し、洋式反射炉の築造と鋼鉄製大砲の製造を命じる。
反射炉の築造は、同年7月、佐賀城の北西にある築地(ついじ、佐賀市長瀬町)築地にて始まり、11月に1基が完成した。12月4日(1851)に火入れ、12月22日に1回目の鋳造を行い、翌嘉永4年1月14日(1851)に2回目の鋳造を行ったが、いずれも失敗した。原料には刀剣を用いるなど原料鉄の質の重要性は既に認識されていたが、炉の温度が低かったことが失敗の原因とされ、温度を上げる取り組みが行われた。 嘉永4年4月10日(1851)、5回目の鋳造で初めて鉄砲1門の鋳造に成功したが、試射で砲身が破裂した。原因は気泡があり鉄質が未だ不均一であったことによる。その後も、試射で破裂する例が後を絶たなかったが、良質の鉄の鋳造が出来るようになり、嘉永5年5月2日(1852)の14回目の鋳造で初めて成功する。
この間、錐鑚台(砲身を繰り抜く機械)や、その動力としての水車などが設けられ、嘉永4年10月(1851)に2号炉、嘉永5年4月(1852)に3・4号炉が増設され、同年6月11日には全4基を稼働させて36ポンド砲を鋳造した。
ペリー来航の1年前になる。
築地反射炉の様子を考証復元した図
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今は跡地となる日新小学校の中に、反射炉の模型と24ポンド砲の複製を見ることができる。
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〇多布施公儀反射炉跡
築地での鉄製大砲の鋳造成功が伝えられると、幕府も反応を示した。嘉永6年(1853年)黒船来航後の8月(同9月頃)、幕府は佐賀藩に、品川台場の備砲を含め当初200門の鉄製大砲を佐賀藩に発注し、最終的には36ポンドカノン砲と24ポンドカノン砲を25門ずつの依頼となる。これを受けた藩は、銃砲製造関係の既存施設があった多布施に新たな反射炉の増設を決定する。多布施反射炉は安政元年3月27日(1854年4月24日)に操業を開始した。
                多布施反射炉の考証復元図
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                多布施公儀石弓矢鋳立所の姿を伝える唯一の同時代史料
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多布施反射炉は、安政6年11月(1859年12月頃)まで操業した。また、築地反射炉は遅くとも、安政4年7月(1857年8月頃)には操業を停止した。佐賀藩が両反射炉で操業を終えるまでの約9年間に、鋳造が完了しなかったものや鋳造後破裂してしまったものを含めて、計138門の鉄製大砲を鋳造した。また、特に長崎の砲台に早期に必要な分などは鉄製大砲では間に合わないため青銅砲で補っており、両反射炉では青銅砲も鋳造した。鉄の大砲と青銅砲を合わせると、300門近くを鋳造したとされている]。


〇大庭雪斎の墓
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大庭雪斎(文化2年(1805)~明治6年(1873)3月28日)は、 18歳頃佐賀蘭学の始祖島本良順に医学、蘭学の手ほどきを受けた。
文政8年に長崎でシーボルトに師事し、39歳頃大阪で緒方洪庵に学ぶ。
安政元年(1854)に佐賀に帰ってからは弘道館の教導となった。
同3年「訳和蘭文語」の前編、翌年後編を出版した。
次いで文久2年(1862)「民間格知問答」を出版。 両著とも口語文で記述し、西洋の進歩した科学を究明する学問が重要であると唱えた。
嘉永4年(1851)蘭学寮が創設されると教導となった。医学寮が好生館と改称されたあとも、教導方頭取の要職にあった。


〇江藤新平の墓
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江藤新平(天保5年(1834)2月9日ー明治7年(1874)4月13日)は、佐賀藩士の江藤胤光の長男に生まれる。
儒学・国学者であった枝吉神陽に学び、神道や尊皇思想の影響を受ける。
嘉永3年(1850)に枝吉神陽が「義祭同盟」を結成すると、大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らとともに参加した。
安政3年(1856)、22歳の時に開国の必要性を説いた『図海策』を執筆し、のちに藩政府に重用される。
文久2年(1862)に脱藩し京都で活動、桂小五郎や姉小路公知らと接触する。2ヶ月ほどで帰郷し、蟄居の罪に処せらるが、長州征伐での出兵問題では鍋島直正への献言を行うなど政治的活動は続けている。
慶応3年(1867)10月、大政奉還により幕府が消滅すると江藤は蟄居を解除され、郡目付として復帰する。
慶応3年12月9日、王政復古の大号令により新政府が誕生すると佐賀藩も参加し、江藤は副島種臣とともに京都に派遣される。

慶応4年に始まった戊辰戦争では、江藤は東征大総督府軍監に任命される。
彰義隊については大村益次郎らとともに討伐を主張し、軍監として上野戦争を戦い彰義隊勢を瓦解させる。
明治2年(1869年)には、維新の功により賞典禄100石を賜っている。



〇枝吉神陽顕彰碑
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枝吉神陽(文政5年(1822)5月24日 - 文久2年(1862)8月14日)は、副島種臣の兄で、佐賀藩を代表する思想家。
父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ,勤王運動を行う。
嘉永3年(1850)に佐賀城下で勤王思想の政治結社「楠公義祭同盟」を結成し、天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが藩主鍋島直正を動かすことは出来ず失敗している。この義祭同盟からは実弟の副島種臣のほか、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇ら明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出している。また、水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。
神陽は律令制を学ぶことを奨励したが、教えを受けた江藤新平(初代司法卿)や大木喬任(2代司法卿)は法整備に活躍し、また、明治政府が当初導入した太政官制は副島種臣が起草したもので、神陽の影響がみらる。

参考:
●品川歴史館特別展 「品川御台場」
●NHK英雄たちの選択「幕末最強の軍をつくった男ー鍋島閑叟ー」
●blog「佐幕か!勤王か!佐賀の歴史」など

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