維新の記憶 1868年 会津戦争

1月16日の読売新聞の「維新の記憶」は、-1868年 会津戦争
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記事では、
慶応4年(1868年)5月、東北と北越の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成した。旧幕府の代わり、新政府と対峙し得る勢力の誕生だった。だが、豊富な装備や戦略で上回る新政府軍を相手に、同盟側では降伏や脱退が相次ぐ。新政府軍は同年8月、会津へ進軍。戊辰戦争で最大の激戦となった会津戦争へと突入する。
と、ある。
この時の会津城下での悲劇は今なお多くの著者が語り継いでいる。

会津側からの長州とのわだかまりは時々話題になるが、新聞記事にはこのことには触れていない。

従来よりのわだかまりの理由の一つが、新政府による埋葬禁止令。この禁止令によって多くの遺体が無残な姿のまま野ざらしにされていたという。
この禁止令には根拠がないと歴史研究家大山格氏も早くから指摘していたが、このことが昨年10月3日の河北新報の記事により裏付けられた。

埋葬禁止令があったことを覆す新史料が前年の2016年12月に発見されたのだ。
新史料とは、地元在住の会津藩士の子孫が1981年に若松城天守閣博物館に寄贈した史料の中のひとつで、「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」。
ここには戦死者の埋葬や金銭支払いが記入されていた。

新聞記事によると、35年間も誰も手を付けず眠っていたこの史料から分るのは、
新政府は会津藩降伏の10日後の10月2日(旧暦)、埋葬を命令する。翌3日~17日、会津藩士4人が中心になって567人を64カ所に埋葬した。それに動員された延べ384人の1人当たり日当として2朱(7,500円)を支給。合計で経費74両(約450万円)が記載されている。
しかも史料には具体的に、家紋の図など遺体発見当時の服装が詳細に記され、女性や子どもの遺体も記載されている。なかには、大砲隊を指揮した山本八重の父山本権八の遺体や、一族21人が自刃した家老西郷頼母邸で発見された遺骨、白虎隊士と思われる遺骨の記述もある。

史料を調査した会津若松市史研究会副会長の野口信一氏は、「1869年2月に阿弥陀寺へ改葬したことを半年も放置したと誤認したと思われる。埋葬禁止説は昭和30年代以前はなかった。長州への怨念の障壁が取り除かれ、会津若松市民と山口県萩市との友好関係が築けたらうれしい」と期待する、と述べている。
新史料の登場が、会津と長州のわだかまりの解消に一役買い、一つの光明を照らすことを期待したいものだ。

以下ここからは独り言。
僕が常々疑問に思っているのは、
幕末の会津藩は、松平容保が京都守護職を拝命し、多くの藩士の京都駐留などによる費用増からその財政難を補うため藩民に過酷な税を課してきたので、藩民からの怨嗟の声が高かった。
従って、会津戦争の際には地元から新政府軍に裏道の進軍路を教える者まで出来する始末だった。
戦後は、会津藩士は殆どが他国へ移動したが、のちに会津へ帰還した元藩士や家族はどれだけいたのだろうか?僕は、反会津的とまでは言わないが没会津的な土地柄に変じたとみえる会津若松の住民が、長州へのわだかまりを持っていることに奇異の感を持ってきた。
こんなことを言うと反発もあるだろうが、これはやはり、観光面からも、白虎隊を始めとする会津戦争での城下の悲劇をことさらに強調してきたからではないだろうか?

ところで、もうかれこれ9年前になるが、白虎隊士飯沼貞吉のお孫さんの飯沼一元氏他2人の4人で、白虎隊の会を立ち上げた。目的は、白虎隊の『義』を現代および後世に伝えること。
ただ僕が参加したもうひとつの理由は、先祖縁者に松平容保、大村益次郎など会津と長州の両方にゆかりの人物がいるため、会津と長州の架け橋的になれればとの思いからでもある。
立ち上げてから5年経って会員も増え各支部の活動も活発になり会としての軌道に乗ったので当初の役割は終えたと判断し、退会させていただいている。
今は、場所を変えて、長州は明治維新防長殉難者顕彰会、会津は会津会、京都会津会に所属しているが、こちらも追々退会しつつある。
そして今年、全く別の子孫の会を立ち上げる予定がある。

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