「花燃ゆ」5月24日放送  攘夷実行

文久3年(1863)5月10日の攘夷期限の日、長州の砲台が火をふいた
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この日、いわゆる攘夷が行われたのだが、実行したのは長州一藩だけで、攘夷実行の舞台は長府藩領と続く海域でのみだった。。
長府藩の御家記『毛利家乗』にこの砲撃について若干記述がある。
『毛利家乗』を全面的に信用してはいけないことは、中山忠光卿の暗殺を病死としているがその例だが、とりあえず、
攘夷について長府藩側の見方を揚げておく。
〇5月10日、
是日、墨艦を城東の海に撃つ
未牌蒸気船一艘東海より来る。府城第一号砲を発す。順次之を受けて彦島に到り皆発す。
彼の船豊前田浦の前に錨す。即ち斥候を遣て之を問ひ墨艦なるを知る、指針師崎陽人一名之に乗る、本月七日江戸を発すと云う、
我之に告けしめ曰く、拒絶期限既に今日よりす、今日此海、昨日の海に非す、決して航過を許さざる也。
時に闔藩戎服会集し以て船の来るを待つ。而して馬関海岸始めて二十余砲を備ふ。然れとも射的間隔の故を以て之を座視す、夜に入り潮回る、彼船尚去らす、宗家庚申艦東より来るに会す、亦た期限の為馬関に備ふる也。
是より前、癸亥艦も亦来て馬関にあり、夜半に至り、二艦行きて之を撃つ、砲三弾命中す、墨艦急遽東に向ひ去る、夜雨曚昧咫尺を弁せす、故に進み撃さる也。
使を発して之を京師関東に聞し、大坂、長崎及ひ近隣の藩に告く、後ち朝廷勅賞を宗家に賜ふ、是より後ち凡異艦ち戦ふ上聞報告
常に此の如し。(上聞書略す)
〇5月23日
仏艦を前田の海にて撃て之を走らその艀を獲
以下略

以上の『毛利家乗』では、5月10日の艦船は墨艦、すなわちアメリカ艦(商船ペンブローク号)である。
まず、東からやってきた異国の蒸気船を見つけたので、櫛崎城の砲台が空砲を放って報知した。次々と海峡沿いに西の砲台も号砲を放った。
蒸気船は潮流が逆行しているため前に進めず、小倉藩領沖の田浦に錨を降したので、斥候が小舟で赴き問いただすと米艦であることが判明した。船の水先案内人の安蔵によると、横浜を7日に出港したという。
米艦には、攘夷期限は今日であり、以後海峡の航行はできないと告げる。
馬関海岸に20数門の大砲を備えているが、砲弾は船まで届かないのは分かっていたので、座視し砲撃はしなかった。
夜になって、潮流が順方向に流れを変えたが、なお米艦は去らない(実際には海峡を抜けようとしていた)。
萩宗家の庚申艦が東より、攘夷期限のため馬関に備えとして来航した。この前に癸亥艦も馬関に到着している。
そこで、夜半(午前2時頃)この2艦で、米艦に砲撃を加えた。庚申艦には光明寺党の面々が乗リ込んでいる。砲弾は3つ命中し、そのため米艦は急いで東に周防灘へ逃げ去った。
雨が降り距離も分かりにくいため(実際は速力に差があり追いつけなかった)、追跡し砲撃することはしなかった。
また、次に砲撃したのは5月23日のフランス艦に対してであった。

『防長回天史』では、
十日午後米国船一隻長府の海上を過ぐ癸亥丸砲台と相応じて之を砲撃す馬関攘夷の第一着なり、とあり、別途詳細な記述がある。

いずれにしろ、攘夷の第一着は米艦に対してであり、海岸からは号砲は放っているが、届かないと知っていて、無駄な実弾砲撃は加えていない。砲撃を加えたのは、庚申艦であり、その後、癸亥艦も砲撃に加わっている。

ドラマでは、いくつかの事象を纏めて、5月10日は海岸からフランス艦を砲撃したことにしていた。


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