京都会津会第108回法要

京都黒谷 西雲院において京都会津会の総会と第108回法要があり、参列させていただいた。
今回で参加は4回目になる。
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式時間は、昨年と同じく、以下の通り
受付10:00~
総会10:40~11:10
法要11:30~12:40
直会12:40~15:00


法要は、文久、元治、慶應年間京都方面に於ける会津藩の戦病死者と、鳥羽伏見の戦死者の慰霊祭。
西雲院本堂と、
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会津墓地にて、
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会津松平家十四代当主、会津若松市長、会津若松市議会議長、会津弔霊義会理事長、等々をお迎えし執り行われた。


直会の席では、容保と八重の軸を掛け、盛大に行われた。
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参加者は今年は89名で、第100回の134名、90回の90余名に継ぎ、戦後3番目の多さであった。今年の大河ドラマ「八重の桜」による影響が大きいようだ。
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様々なエピソードの披露があった。曰く、
鶴ヶ城の三の丸に、8月に八重の像、10月に司馬遼太郎の文学碑が建立する
会津弔霊義会は、大正6年に設立されたが、昨年10月に公益財団法人になった
昭和6年5月3日会津会春季総会に、八重が86歳で参加している
などなど、話題は尽きない。
個人的にも様々な話を聞くことができた。
ただ、僕にとっては、いつも未知の情報が入手できるのが、この直会の意義なのだが、
会津藩士の御子孫と、会津を熟知している歴史研究者など、例年来られている方が何人か参加されておらず、確認したいことがあったのだが、残念ながらできなかった。それが唯一の心残りではあった。


今回参加して、会津墓地に明治40年(1907)に慰霊碑として建立された「慶應之役伏見鳥羽淀会藩戦死者碑」があり、そこに刻まれた霊名と、南禅寺金地院所蔵の明治30年作成の「戊辰伏見鳥羽之役 東軍戦死者人名録」の記載の会津藩戦死者名とを、比較することができたので、ここに、記録しておきたい。


「慶應之役伏見鳥羽淀会藩戦死者碑 」(以下、「会藩戦死者碑」)には、6段にわたって霊名が刻まれていて、人数は115名を数える。
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但し、4段目の右から3人目に安藤牛助、6段目の左端に安藤丑助が刻まれているが、これはどう見ても同じ人物と思われる。
また、5段目にある町野源次郎(8月21日越後五泉で戦死)、町野源三郎(5月1日白河で戦死)の2名は、鳥羽伏見で戦いが切っ掛けでの戦死ではないのでこの慰霊碑の趣旨からは外すべきと考える。
2段目右端の服部幸次郎は「校訂戊辰殉難者名簿」に記載がなく、次の「戊辰伏見鳥羽之役 東軍戦死者人名録」では新撰組所属で、正月3日伏見に於いて戦死と記載されている。
従って、明治40年時点で、「会藩戦死者碑」に刻むべき霊名は本来は111名になる。


「戊辰伏見鳥羽之役 東軍戦死者人名録」(以下、「東軍戦死者人名録」)には、江戸で詰め腹を切らされた神保修理を含めて130名の記載がある。
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但し、掘隊の佐藤次郎八がダブって記載されているので、実際は129名となる。
この人名録は、明治30年に作られ、明治40年に補修し、更に見直しを続けて大正15年に完成としている。

この二つの資料を比較してみると、

「会藩戦死者碑」にあって、「東軍戦死者人名録」にない人名は、
有竹五郎太、有竹清蔵、安藤牛助、水野牛次郎、佐藤次郎、町野源次郎、町野源三郎の7名。
但し、二重記載の安藤牛助、 越後・白河での戦死の町野源次郎・源三郎兄弟を外すと、4名となる。

「東軍戦死者人名録」にあって、「会藩戦死者碑」に刻まれていない人名は、
佐藤次郎八、倉澤豊三郎、伊深金治、中村謙治、諏訪弘三、寺澤兵庫、秋山鐵次郎、中田傳蔵、柏村重兵衛門、高畑平蔵、石井甚吾、林駒之助、野田清次郎、吉田留八、粂新八、水野兵吾、矢々崎五郎八、桐川(相川か)市太郎、澤田富之助、佐藤源三、佐々木悦次郎、神保修理の22名。

同じ戦死者でありながら、両者にみられるこの差異はなぜなのだろうか?
石井甚吾から佐々木悦次郎までの11名は、「東軍戦死者人名録」の会津藩戦死者名簿の最後に連続して記載してあることから、明治40年以後の見直しで追記したと考えられる。

戊辰戦争での戦死者名簿をついては、戊辰戦役70年記念号の会津史談会誌16号に、
「会津側に於ける戊辰戦役に関する図書解題」の項に、「戊辰戦役における会津藩殉難者名簿」として以下の記述がある。
明治24年に山川浩が「会津戦死者名籍」を出版し、別個に明治44年に加藤長四朗が「会津藩戦死殉難者人名録」を出版。
のちに、山川浩が両方を比較したが完成に至らず、昭和2年山川健次郎が飯沼関弥と共に、「校訂戊辰殉難者名簿」を作成している、とある。

従って、明治40年建立の「会藩戦死者碑」に刻まれた霊名がすべて正しいわけではなく、昭和2年まで改定が行われたことが分かる。それでもおそらくすべてが調査し尽くされ霊名が確定ているわけではないと思われる。

いずれにしろ、厳密には黒谷で行われる法要は、
文久2年(1862)から慶応3年(1867)まで京畿で亡くなった藩士と、慶応4年の鳥羽伏見の戦いで戦死した藩士の慰霊祭であり、「会藩戦死者碑 」の前で行われている。
明治40年以後、この慰霊碑の霊名の更新はしていないようなので、会津墓地の中に墓石もなく、碑にも刻まれていない戦死者についても何らかの形にして、慰霊すべきと考える。

具体的には、「東軍戦死者人名録」、「校訂戊辰殉難者名簿」をもとにして、 霊名のメンテナンスを行って人名録を作り、その人名録を、「会藩戦死者碑 」の前に安置などして、法要を行ってはどうだろうか。京都会津会に提案してみたいと思っている。


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この記事へのコメント

木村勝四郎・玄孫
2013年09月07日 17:15
初めてお便り(投稿)いたします。
私も今年6月の京都会津会主催の法要に参加いたしました。
私の先祖は会津藩士・木村勝四郎といい、西雲院の会津藩士
殉職者墓地に埋葬されています。毎年先祖のお墓参りに行き
ますが、今年初めて京都会津会に入会し法要に参加しました。
私の先祖木村勝四郎は伏見で戦死しましたが、実の兄と一緒
に京都に従軍していましたので、兄が弟を金戒光明寺に埋葬
したと聞いています。ちなみに木村勝四郎の実父は上田一覚
(上田伊閑)800石・番頭です。二男として生まれ、木村家の
養子となりました。長男(兄)が家督を継ぎ上田隊を率いて
いたことから、兄弟一緒に京都へ行ったと聞いています。
会津戦争時、木村勝四郎の妻子は鶴ケ城に篭城しましたが、
上田家一族は全員戦死(自刃)したと聞いています。
もし、次回に京都会津会でお会いすることがありましたら、
いろいろとお話したいですね。
この度は突然に失礼致しました。
寸心
2013年09月07日 23:58
木村勝四郎・玄孫さま
貴重なコメント有難うございます。
次回の京都会津会主催の法要までに、明治40年以後に判明した霊名で過去帳を充実させるべく西雲院様に協力させて頂きたいと思います。
来年お会いできるのを楽しみにしております。

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