長崎通詞・楢林家と今村家

長崎の通詞・蘭方医の2家系(楢林家と今村家)を調べている。
先月、長崎を訪問したときは、そのひとつ今村家の源右衛門英生の墓所をお参りした。
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英生は寛文11年(1671)11月5日通詞より一段低い家格の内通詞今村市左衛門公能の次男として長崎で生まれた。幼少の時から父親からオランダ語とポルトガル語を学び、少年時代出島のオランダ商館医師に奉公し研鑽を積む。
1690年、20歳でドイツ人医師ケンペルに師事し、鎖国下において日本に関する情報収集という法律違反の手伝いをする。2年に及ぶ奉仕の結果、抜群の語学力と医学・薬学、博物学の知識を獲得する。
この英生の献身によって、ケンペルの名著「日本誌」が後に生まれる。後世に多大な影響を与えたこの本は、日本来航の前にペリーも熟読したことで知られる。
英生は25歳でオランダ通詞に採用され、たちまち頭角を現し、オランダ貿易の仲介者として中心的役割を果たすようになる。
小通詞を10年、年番、江戸番を三回ずつ経験し、37歳で大通詞、最後は通詞目付にまで昇進した。
新井白石が、布教を目的に屋久島に潜入した司祭シドッチを尋問した際、英生が通詞として立ち会っている。また日本馬の馬体を改善しようとしていた将軍吉宗の前で、調教師ケイゼルがヨーロッパ馬術を披露したとき、英生が付き添い通訳を務めている。

この英生から数えて5代後に、関東大震災を予言し地震の神様と呼ばれた、今村明恒が生まれている。明恒の5男昇に、河島由路・鋹夫妻のひ孫春子が入嫁している。

河島由路の妻鋹(とし)は、小杉家の出身で、弟に直吉と雅之進がいる。
父親は小杉直方で長崎奉行支配調役。母親は長崎出身の楢林峯子。
この楢林峯子は、長崎のオランダ通詞であり、楢林流紅毛外科を創始し家業とした、楢林鎮山(1648-1711)の子孫になる。

楢林鎮山は 明暦2年(1656)9歳のときからオランダ語を学び、寛文6年(1666)小通詞に、貞享2年(1685)38歳で大通詞となる。またケンペルの門下生でもあった。通詞時代はオランダ商館長の江戸参府に7回随行している。
オランダ商館医師ボッシュやホフマン等について医学も修め、「紅夷外科宗伝」(貝原益軒序)などを著した。元禄5年(1692)オランダ通詞職を子量右衛門に譲り、創始した楢林流外科を生業とした。
医術の評判を聞いた将軍綱吉から御典医に召されたが固辞し、また筑前の黒田綱政からの再三の招きも固辞している。去来らと俳諧を楽しみ陀方と号した。

鎮山以後、楢林家は12代にわたってオランダ通詞を勤め、幕末維新に及ぶ。また、鎮山の創始した楢林流外科は、量右衛門の弟栄久が相続し、以後、別家は6代にわたって外科医を開業した。4代栄哲の子宗建(1802~52)は嘉永2年(1849)に牛痘法による種痘に成功し、わが国種痘の開祖と称される。

今村家の家系図を見ると、同じオランダ通詞として、楢林家との婚姻が昔から散見される。先月長崎を訪れた時は楢林家の調査ができなかったが、近々出かけてじっくり調べてみたいと思っている。


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