テーマ:幕府・幕臣

摂海防御の絵図

一枚の絵図がある。 神戸六甲山系の摩耶山(標高702m)から摂海(大坂湾)を望んだ絵図だ。絵図の描かれ方から、摂海防御の拠点を明示していると考えてよい。 この絵図には文久3年4月26日との日付がある。誰が描いたものかわからない。 摩耶山は、大阪湾が一望できる場所なので、今でもその目的で登る人が多い。 頂上は今では掬星台と呼ば…
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慶喜の大坂城脱出

鳥羽伏見の戦いの最中に、徳川慶喜が大坂城を脱出した。 このことを、月岡芳年や長谷川貞信が「徳川治蹟年間紀事 」のシリーズの錦絵のなかで描いている。よく知られた画題「十五代 徳川慶喜公」だが、二人の錦絵はよく似た構図になっている。 この錦絵は、右端の開陽丸にこのとき蒸気役一等(機関長)として先祖の小杉雅之進が乗船しているので、気になる…
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彰義隊慰霊祭

今日は5月15日。 5・15事件の日だが、僕にとっては上野戦争の日。 以前、この日にあるお寺を訪ね、そのあと、お世話になった礼状を出させていただいた。 ――――――――――――――――― 先日午後、お参りをさせて頂いた者で正井と申します。その節は柵内にも入れさせて頂き大変有難うございました。 私には高祖父に彰義隊士と長府藩士が…
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史書を訪ねて 日本誌

1年ほど前の「史書を訪ねて」は、ケンペルの『日本誌』だった。 記事は、『日本誌』の中身の紹介とともに、影響を受けたカントの『永久平和のために』や、幕末では熟読して来航したペリーにまで話が及んでいる。 ただ、この史書の成立については触れられていない。 ケンペルは、元禄3年(1690)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島…
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史書を訪ねて 復古記

先週の「史書を訪ねて」で、取り上げられていたのは『復古記』 『復古記』は慶應3年(1867)の大政奉還から戊辰戦争最後の箱館戦争終結までを扱う。各家の家記の抜粋などから同じ出来事を多角的に記述してはいる。 僕にとって興味深いのは、東叡山戦記と蝦夷戦記。 東叡山戦記では彰義隊側の『斃休録』も採用し、蝦夷戦記では旧幕府側の小杉雅之…
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小杉家資料の記憶と記録 その1

昨年、東京製綱所の創業時代の史料を、東京製綱所に譲渡した。 該社からは、当社にもない貴重なもの、と感謝される。 小杉家の資料を整理していて、ある図面と定款を見つけた。 図面には東京製綱株式会社小倉分工場と判があり、定款には「浅野小倉製鋼所定款」との表紙がある。 図面は、「Wall box & shafts」と記され、ワイヤロ…
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本能寺の絵図面

11月に、日米修好通商条約の勅許奉請に関する史跡めぐりがある。 昨日はその下調べのため京都寺町の本能寺を訪ねた。 本能寺は、使節の正使・老中首座堀田正睦の宿舎であり、また朝廷との交渉の場だった。 とりあえず僕が知りたいのは、 交渉が行われた安政5年(1858)の本能寺の敷地と建物の、当時の姿。 実は、10日ほど前にも本能寺…
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幕臣の小杉直吉・雅之進兄弟の生き方

今月8月は、21日が小杉雅之進、24日が小杉直吉の祥月命日。 小杉家は、南北朝時代の越中守護、桃井播磨守直常を始祖とする。  絵には「ももい なをつね」とあるが、正しくは「もものい ただつね」 直常の6代あとの桃井三郎四郎直宣の嫡子に、桃井尚芳(なおよし)が生まれる。 小杉村に潜居していた尚芳は、元和3年(1617)に加…
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彰義隊墓前法要からの雑感

今日5月15日、彰義隊の墓前法要が行われた。      (上の写真2葉は昨年の撮影)   この日は例年、上野に出かけているのだが、今回は残念ながら関西で用があり出席が叶わない。 この10年間で、一昨年のケガでの不参加を含め2回欠席したことになる。 僕が墓前法要に参加するのはもちろん訳がある。 幕臣の高祖父・河島由路は…
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薩摩藩蔵屋敷跡

田町駅前の再開発 僕の住んでいた場所が大きく変わる。 報道によると、 三菱自動車本社があった第一田町ビルと隣の徳栄ビルの敷地に、高さ約150m、延べ約131,000㎡の超高層ビルが建設される。三菱地所設計が参画し、今年度に着工し、2022年度頃に完成する見込み。第一田町ビルの所有者は三菱重工で、徳栄ビルは徳栄商事。地権者は三菱…
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ある写真の人物判定

ある写真の謎解きができた。 終戦後になるが祖父母の代のときに、近所の火事で家が類焼し祖父母と子供6人の一家が焼け出されたことがあった。 そして、子供たちが鎮火した火事場から写真の入った駕籠箱を見つけ、中から燃え残っていた写真を拾い出す。 どの写真も祖父母が大切に保存してきた先祖の写真だったが、残念ながら、焼け跡から取り出せたの…
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本能寺と咸臨丸

先日、京都での日米修好通商条約勅許奉請の使節の史跡めぐりに参加した。 使節の正使・老中首座堀田正睦の宿舎は寺町の本能寺で、ここが朝廷との交渉の場だった。 通商条約関係でこの場所を訪ねたとき、実は因縁めいたものを感じたのだった。 本能寺を創建した日隆上人は、高祖母小杉としの実家・小杉家と縁続きになる。通商条約の批准書交換の遣米使…
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笑点大喜利と帆船海王丸

僕の好きなものに、笑点の大喜利がある。 居並ぶ落語家の当意即妙の受け答えが面白い。 最近は昔の大喜利も火曜日に放映されるので毎回楽しみにしている。 今回の火曜日の放映は、驚いたことに2010年5月2日(日)の、初めて観る大喜利だった。 未見のはずで、実は5月2日は僕は日本にいなかったのだ。 この大喜利の放映時間が1730と…
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通商条約勅許使節の史跡巡り

先日、京都にて史跡めぐりに参加してきた。 テーマは、日米修好通商条約の勅許を得るため、安政5年2月4日~4月5日まで滞京した幕臣たちの跡をたどること。 今回の史跡めぐりは、岩瀬忠震が宿泊した瑞泉寺での、有志による岩瀬忠震・橋本左内顕彰碑の建碑を記念して企画された。 岩瀬忠震は、海防掛目付として開国に向けて中心的役割を演じ、滞京…
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徳川慶喜の筆「誠」

先日、徳川慶喜の書いた「誠」の書が 広辞苑編者の新村出旧宅で発見されたと報道された。新村出の養父猛雄は慶喜に仕えていたため、新村家で受け継がれたと考えられる。 「誠」は、慶喜にとってはまことに身近な文字だったのではないだろうか     (新村出記念財団提供) 儒教の書「中庸」に 「誠者天之道也、誠之者人之道也」(誠は天の道な…
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九州1日目 佐賀

1年前の九州史跡めぐりを記録しておく。 10/20佐賀、10/21-22長崎、10/23-25鹿児島。 佐賀と鹿児島は今まで未踏の地だった。 10/20、先ずは日本の近代化の先駆けとなった佐賀から。 佐賀藩は、貿易の窓口の長崎警備を幕府から命じられ、福岡藩と隔年交代で担当していた。そのために、長崎からいち早く正確な海外情…
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彰義隊と雁鍋

最近は上野戦争当日の彰義隊の戦いに関心がある。 『史談会速記録』第74輯記載の明治31年の小野保の話によると、 膠着状態のこの戦争の流れを大きく変えたのは、滋野直臣という兵士の空腹だという。 腹を満たしに黒門口傍の雁鍋に入って二階に上がってみると、手こずっていた山王台の彰義隊の砲台がよく見える。 そこで、この二階から十四…
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小杉雅之進と三吉慎蔵、および前田常三郎

小杉雅之進は、幕臣で蒸気方手伝として咸臨丸で渡米している。 三吉慎蔵は、長府藩士だが、龍馬からの遺言で龍馬暗殺後、自宅でお龍を預かっている。 二人は住む世界が全く違うが、接点がある。 前田常三郎だ。 前田常三郎は、晩年「坂本龍馬大明神」と書いた自筆の書を前によく拝んでいたという。下部には、ワイルウェフ号沈没で亡くなった亀山社…
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維新の記憶 1868年 蝦夷政府の降伏

1月23日の読売新聞の「維新の記憶」は、-1868年 蝦夷政府の降伏 見出しには、旧幕府軍 最後の戦い、とある。 旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が、開陽丸を旗艦に8隻の艦船で品川沖を抜錨し、蝦夷地を目指して江戸湾を脱出したのは、慶応4年8月19日だった。 このときの、開陽丸の蒸気役一等(今の機関長)は小杉雅之進、26歳。以下の写真…
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維新の記憶 1868年 江戸無血開城

2月6日の読売新聞夕刊の「維新の記憶」は、1868年江戸無血開城 だった。 海舟と西郷とが江戸で行った2回めの会談場所は、僕には懐かしい場所でもある。 海舟と西郷は、記事の通り、3月13日薩摩藩高輪屋敷、14日薩摩藩蔵屋敷で会談している。 海舟日記に「十三日、高輪薩州藩邸に出張、西郷吉之助へ面談す。・・・・。十四日…
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京都での歴史探訪 その2 大政奉還の二条城

京都史跡めぐり 2日目のコースは、二条城 ---> 京都御所  --> 伏見寺田屋 ~薩摩屋敷で、 午前は、大政奉還の行われた二条城を見学する。 二条城は、初めて訪れたのだが、現在は平成23年から20年の歳月をかけて本格的な修理を行っている最中。それでも、150年前に大政奉還が行われた節目の年でもあり、見学者…
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斉藤一の写真から

元新撰組の斉藤一の写真が公表された。     写真はwikipediaより拝借                         新聞発表では、一葉は個人、一葉は集合写真 集合写真の撮影の時期は明治30年11月14日とされている。 写真師は中黒實。 発見者のあさくらゆう氏によると、 写真師の「中黒實」をよく知らなか…
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先祖調査からの拾遺

先祖調査をしていると、不思議なことに出会う。 これを歴史の綾と勝手に呼んでいるのだが、幕末がらみを中心に幾つか挙げてみる ①小杉雅三が、小杉雅之進と同一人物だったこと 小杉雅之進は幕臣で、長崎海軍伝習所にて修業し、咸臨丸で米国へ渡航、のちに開陽丸の機関長になり、戊辰戦争では北海道で戦い、五稜郭で降伏する。のちに品川脱走から降伏…
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幕臣・河島由路の祥月命日

河島家は賄方の家系で、長年の間に徳川家より受けた恩顧に報いるため、慶応4年に彰義隊に参加する。 そして5月15日、上野で戦争がはじまると黒門口にて戦い、その際に銃撃を受け、胸から背中に貫通銃創を負う。    三橋側から見た黒門、右側は御成門のため閉じている    小川興郷が描かせた彰義隊奮闘の図 共に戦っていた16歳の長男…
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京都守護職上屋敷跡

京都守護職上屋敷跡が出土したので、現地説明会に出かけてきた。 写真は、出土した三つ葉葵紋の軒丸瓦                                  守護職上屋敷の場所は、現在の京都府庁の敷地になる。 その敷地の東北角の一角に、府警本部新庁舎(京都府合同庁舎と自動車車庫)の建…
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宣教師シドッチの遺骨発見

昨日(4/4)、「最後のバテレン」と称されるイタリア人宣教師シドッチの遺骨発見のニュースが飛び込んできた。先祖縁者が、このシドッチと顔見知りだったので、とても驚いた。 鎖国時代に外国人宣教師らが収容されていた東京都文京区の「切支丹屋敷」跡地の発掘調査で出土した遺骨が、1708年に屋久島に上陸して幕府に捕らえられたシドッチのものとみ…
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海舟と西郷の会談

慶応4年の鳥羽伏見の戦いのあとから江戸開城までに、二人の間で書簡の交換や会談は何回かおこなわれる。 始まりは、山岡鉄太郎に託した西郷吉之助宛て海舟の書簡。 2月11日の江戸城重臣会議において、慶喜は恭順の意を表し、海舟に全権を委ね、自らは翌12日に東叡山大慈院に移転し謹慎した。海舟は、この徳川家の状況を、西郷に書を送り伝えようと…
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オランダ訪問 その5 ライデン

11/1(日) 目的:ライデンにあるシーボルトの日本関係史料を拝見し、留学生の足跡を訪ねる 最高気温は17℃、服装は、長袖とチョッキで通した。 0530 起床、まだ暗いがアムステルダムの街を早朝散歩する。 日曜日だからなのか、自動車も自転車も人もいない。オランダは自転車天国で、自動車道路の右側に一方通行の自転車道路が整備されて…
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オランダ訪問 その4 航海訓練海域

10/31(土) 北海沿岸方面を廻りアムステルダムへ移動 目的は、開陽丸に機材搬入した場所と、航海訓練した海域を見学すること 気温は最高17℃、アムステルダムは夜は10℃、 服装は長袖にチョッキ、夜はコート着用した。 0600 起床、今日ホテルを発つので、荷造りしてから散歩。 0700 朝食 0840 荷物回収のため…
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オランダ訪問 その3 開陽丸建造・記念式典

10/30(金)  今日の目的は、開陽丸建造150年の記念展示拝見、進水場所での記念碑除幕と、ドルトレヒト市が主催する式典参加 絵は、進水の場面 この時綱が切れ、向かいの岸辺まで船が止まらず、浅瀬に乗り上げてしまい、離脱は満潮まで待つことになる。 開陽丸は、1860年11月2日に進水したので、式典はその近くの10月30日に設…
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