テーマ:長州・長府

11月15日

旧暦の11月15日は龍馬が亡くなった日だ。 この龍馬の死を三吉慎蔵はどのように思っていたのだろうか。 二人は、慶應二年の正月に初めて会い、その23日には寺田屋にて幕府の捕吏との闘いから辛くも逃げおおせた。 このとき、慎蔵は、 ①共に戦い負傷した龍馬を肩にかけ遁れる(慎蔵日記) ②薩摩藩邸に走り動けない龍馬を救出する(慎蔵日…
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三吉慎蔵談話の要

ある調査をするのだけれど、この書を取っ掛かりに進めたいと思う。 中には何か所か、慎蔵の記憶違いか聞き手の聞き間違いかの箇所があるが、それも面白い。  三吉慎蔵時治氏談話ノ要 八月十三日豊浦毛利邸ヲ訪ヒ三重盛二氏ニ面談翌十四日ニ於テ林洋三氏ト會合ノ事ヲ約シテ去ル 帰路三吉慎蔵氏ヲ訪フ其對話ノ要左ノ如シ 問 坂本龍馬ト御交…
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彰義隊慰霊祭

今日は5月15日。 5・15事件の日だが、僕にとっては上野戦争の日。 以前、この日にあるお寺を訪ね、そのあと、お世話になった礼状を出させていただいた。 ――――――――――――――――― 先日午後、お参りをさせて頂いた者で正井と申します。その節は柵内にも入れさせて頂き大変有難うございました。 私には高祖父に彰義隊士と長府藩士が…
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ブックカバーチャレンジ 6日目

僕が影響を受けた本を中心に紹介いたします。 下関市立長府博物館『企画展 三吉慎蔵と坂本龍馬』 本というより図録ですが、まあ、一般図書ということで。 この題名の展示会が開催されたのが2001年なので、まだ在職中で経営企画室長に任命された頃だったと思う。 実は仕事も忙しくまた面白かったので、展示会拝見のあともまだまだ幕末趣味…
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霊山の墓

個人的に気がかりなことある。 幕末の志士がここに神葬祭で葬られたいと望んだ、京都霊山。 明治になってから整理され、山口関係は一つの区画に墓石が立ち並んでいる。 その中にL字型に整然と並ぶ一角がある。 L字型の中心に船越清蔵守愚の墓を据え、長州各藩士の墓が広がる。 船越清蔵は、霊山で最初に神葬祭で葬られた清末の国学者で、…
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史書を訪ねて 大内義隆記

昨年12月には、読売新聞夕刊の「史書を訪ねて」の記事にて、『大内義隆記』を取り上げていた。 なかなかに珍しい書物の紹介だと思う。 また年末には、新日本風土記で、西の京とも呼ばれる山口を取り上げていた。大内氏の故郷だ。 2年前の再放送だが、画面に釘付けになってみていた。 僕にとっては山口というと、毛利氏以上に大内氏により親しみ…
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「京都ぶらり歴史探訪」寺田屋事件

BS朝日の「京都ぶらり歴史探訪」を拝見した。 一昨日1/7の放送は「歴史は冬に作られた!」で、様々な事件を取り上げていた。全体的には史実に基づいた内容が大半なのだが、寺田屋事件については疑問符がつく。 ま、主題は龍馬とお龍で、お龍が龍馬の命の恩人であることを強調して描くためとは思うが、一部に残念な内容もある。 ご存知のように、…
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船越清蔵の知名度

幕末の船越清蔵を調べているのだが、 なかなか書かれたものが少なく、評伝としての堀哲三郎『船越清蔵先生』が良本といえるのだろう。 この本には、三吉慎蔵との関係は特には記述がないのが残念だが、 小坂土佐九朗の二男として三吉家に養子に入った慎蔵は、養母喜久との縁で、船越清蔵とは縁続きになる。 その船越清蔵は、萩本藩の支藩清末藩に生…
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久坂玄瑞と船越清蔵

久坂玄瑞の備忘雑録は5冊が伝わっている。 その1冊は「筆廼末仁満爾」(文久壬戊十月上浣日)とある。 その中の或るページに「船翁墓碑之事。」とメモ書きが記されている。 これは、文久2年10月上旬からの覚書に記した短いメモだが、松陰始め一門が舩翁と尊称した船越清蔵の墓について、玄瑞がその建碑に心いたしていたことを表している。 …
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三吉慎蔵の鹿児島訪問

三吉慎蔵が、鹿児島を訪れたときに宿泊した場所を調べている。 慎蔵は、明治20年(1887年)12月6日に鹿児島にて薨去された島津久光公の国葬に参列する。北白川宮能久親王の奥方は久光公の養女でもあり、家令として宮の名代を務めた。 12月7日に横浜を出港、翌日神戸に寄港したのち、10日に神戸を出港し12日に山川港に入り着港する。 …
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西郷の硯

ある硯が気になっている。 三吉慎蔵が西郷吉之助に贈った赤間関硯で、今は酒田の荘内南洲会が所蔵している。 月に波上のうさぎが刻されている。よく使われた跡がみてとれる。 慎蔵が西郷に贈ったことは記録が残っている。 『三吉慎蔵日記』に、 「(慶応2年3月)七日夜馬関ヘ着ス。直ニ通船ニテ拙者ハ上陸シ鶏其他赤間関硯等ヲ購シ、西郷…
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三吉慎蔵のルーツは半島にあり?

平成13年(2001)、明仁上皇は68歳の誕生日記者会見において、翌年の日韓共催ワールドカップの開催にあたり関心事を聞かれ、天皇家は百済国と血縁関係があると発言をされた。                    桓武天皇 「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王…
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開陽丸子孫の会の総会場所

開陽丸子孫の会の総会の案内が届いた。 例年、4月後半の開催が多いのだが、今年は改元記念の10連休もあり、6月に行われる。 ところで、その総会の開催場所は平河町のホテルルポール麹町だが、僕には懐かしい場所だ。 明治11年2月16日から明治17年10年9日まで、三吉慎蔵が暮らした場所なのだ。 勿論、開催場所の設定は僕がしたわけで…
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『 幕末維新全殉難者名鑑 』

戊辰戦争の殉難者を調べるため、1986年に出版された『幕末維新全殉難者名鑑』を見てみた。 特に関心があるのは会津藩についてなのだが、縁者の松平勇雄が名鑑の推薦者にいるのに記載には間違いが散見される。 たとえば、 ●安積運次郎 名鑑に記載漏れ。鳥羽伏見の戦いで捕虜、京都獄中で死亡。 ●在竹五郎太 名鑑に記載。殉難者名籍にあり、…
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永井荷風、永井智子と永井路子

永井荷風と、永井智子と永井路子(1925年3月31日-)のお話 明治時代に長府毛利家の屋敷があった麻布市兵衛町に、時代は下って大正8年(1919)に永井荷風(本名永井壮吉)が偏奇館を新築し移り住む。 そして旺盛な創作活動のなかで、才能豊かな荷風は昭和13年(1938)に作曲家菅原明朗と歌劇『葛飾情話』を作って浅草オペラ館で上…
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適塾にて

昨日、適塾関係で調べものをした。 まず、大阪府立中之島図書館で資料を見て、適塾と、近くの除痘記念館を廻る。 天然痘(痘瘡)は、昔から人類に惨禍を齎したが、昭和55年(1980)にWHOが根絶を宣言した。それは、英のジェンナーが1796年に牛痘種痘法を開発したことによる。 佐賀藩医・楢林宗建は、日本にジェンナー式の種痘を普及…
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兼高かおるさんと 三吉友子

兼高かおるさんがお亡くなりになった。 「兼高かおる世界の旅」、僕の世代で知らない人はいないだろう。 心からお悔やみ申し上げます。 ところで、兼高さんは香蘭女学校出身で、黒柳徹子の先輩になる。 香蘭女学校は歴史が古く、僕にも懐かしい学校だ。 明治初期に日本伝道を開始した英国国教会は聖ヒルダ伝道団を創設し、その事業の一…
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小杉雅之進と三吉慎蔵、および前田常三郎

小杉雅之進は、幕臣で蒸気方手伝として咸臨丸で渡米している。 三吉慎蔵は、長府藩士だが、龍馬からの遺言で龍馬暗殺後、自宅でお龍を預かっている。 二人は住む世界が全く違うが、接点がある。 前田常三郎だ。 前田常三郎は、晩年「坂本龍馬大明神」と書いた自筆の書を前によく拝んでいたという。下部には、ワイルウェフ号沈没で亡くなった亀山社…
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河島由路と三吉慎蔵、および輪王寺宮

河島由路は、幕臣で賄方、七拾俵五人扶持の小臣。彰義隊に参加した。 三吉慎蔵は、寺田屋にて龍馬と共に幕吏に襲われからくも脱出に成功する。 この二人の接点が、輪王寺宮。 河島由路は、屋敷は本郷湯島天神下仲坂下に所在し台所の床下に生簀があって常時生魚が遊泳し、将軍が望むと生簀から鯉などを供していた。 近くに、湯島天神の男坂を下った…
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船越清蔵と小山六郎、および澤主水正宣嘉

船越清蔵は、長州清末の国学者であり、京・大津に住んで尊王家として活躍した。 小山六郎は、世を憂う但馬の豪農の一人として生野の変に参加し、破陣後長州へ遁れ長州の内戦などに参加する。 全く異なる二人だが、接点が一つだけある。 澤主水正宣嘉だ。 船越清蔵は、文久2年(1862)8月8日に、萩にて藩主に御進講をした後、故郷に帰る帰途…
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長井雅楽の詩歌と 龍馬

長井雅楽の辞世は、、詩一首と歌二首が残されている。 〇欲報君恩業未央 自羞四十五年狂 即今成佛非予意 願帥天魔輔国光 〇今更に何をか言(いは)ん代々を経し君の恩(めぐみ)にむくふ身なれハ 〇君がため捨(すつ)る命ハ惜からて 只思はるる国の行すゑ wikiでは、 〇君恩に報いんとして業いまだ央ならず 自羞す四十五年の狂 …
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『久坂玄瑞史料』をよんで

文久2年8月8日(1862年9月1日)に、清末藩出身の攘夷運動家・船越清蔵が毒を盛られ58歳で亡くなる。 この清蔵を慕っていた中谷正亮が35歳で病死したのも同じ日。 こんな偶然もあるものだと思っていたのだが、改めて調べてみると正亮は実際は閏8月8日(1862年10月2日)だった。 調べるきっかけになった『久坂玄瑞史料』が昨…
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維新の記憶 1876 大阪会議

3月6日の読売新聞の「維新の記憶」は、1875大阪会議 記事には、 維新を成し遂げた盟友たちは、征韓論などをめぐって対立を深めた。西郷隆盛、板垣退助、木戸孝允らは続々と政府を去り、内務卿に就いて権力を集中させた大久保利通に批判が高まる。明治8年(1875)1月~2月、大久保、木戸、板垣が大阪に集まり、妥協点を探った、 とあ…
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維新の記憶 1868年 会津戦争

1月16日の読売新聞の「維新の記憶」は、-1868年 会津戦争 記事では、 慶応4年(1868年)5月、東北と北越の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成した。旧幕府の代わり、新政府と対峙し得る勢力の誕生だった。だが、豊富な装備や戦略で上回る新政府軍を相手に、同盟側では降伏や脱退が相次ぐ。新政府軍は同年8月、会津へ進軍。戊辰戦争で最大の激…
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維新の記憶 1869年 東京招魂社の創建

2月20日の「維新の記憶」は、-1869年 東京招魂社の創建- 見出しに大きく「長州の思想 新政府踏襲」とある。 そして記事では、簡潔に、靖国神社の源流が京都霊山の霊明神社であることを明示している。 ①京都霊山の霊明神社が、幕末に神葬祭を始めたこと ②霊明神社が、安政の大獄で殉難した志士たちの神葬祭を営んだこと ③明治新政…
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維新の記憶 大村益次郎受難

2月13日の読売新聞の「維新の記憶」は、彰義隊がテーマかと思ったが、-大村益次郎受難- だった。 大村益次郎にもかかわるのだけれど、実は僕の先祖調査で分からないことがある。 三吉慎蔵の娘・友子の婿のことだ。 明治23年、慎蔵は北白川宮能久親王(彰義隊の輪王寺宮)の家令を辞して、長府毛利元敏公の長府帰郷に従い、長府に居を構える。…
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維新の記憶 1866年 寺田屋事件

2017年10月17日の読売新聞「維新の記憶」は、1866年の寺田屋事件を扱っている。 記事はおおむね正しいのだが、いくつか確定していないことや間違いも散見される。 ①「慶応2年(1866)1月23日の夜、伏見奉行所の捕り方約100人旅館「寺田屋」を取り囲んだ。」、としているが、捕り方の人数は全く分からない。当時に流布し…
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伏見寺田屋にて

「好ましからざる人物」 ペルソナ・ノン・グラータ Persona non grata。 これは外交用語なのだけれど、 9月8日から3日間行われた米熊・慎蔵・龍馬会による京都歴史ツアーの中でも、感じたことだ。 コンピュータの世界ではもう45年ほど前に流行ったが、バーチャルというコンピュータ用語がある。 当時は大型の汎用コンピ…
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龍馬が隠れた材木納屋

龍馬と三吉慎蔵が幕府の捕吏と寺田屋で戦い隙を見て逃走した途次、隠れた材木納屋がある。 ただし鳥羽伏見の戦いで焼失しているので、写真の材木納屋は当時のものではない。 この材木小屋について、伏見奉行所の報告には、 「村上町財木渡世 近江屋三郎兵衛財木納屋へ 龍馬手疵を受候侭立入」とある。 材木商・近江屋三郎兵衛のものと確認されて…
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初代伏見町長・江崎権兵衛

江崎権兵衛は、伏見の事業家であり初代伏見町長をした人物だが、その履歴を調べてみた。 弘化元年7月23日、先代江崎権兵衛の次男として、字家書に生まれる。幼名は源三郎。 初代は江州坂本在仰木村出身で、330年前に伏見両替町に来住し、大工であったが、のち阿波橋東詰において近江屋の屋号で材木業を営んだ。 祖父の代に、盛業をきわめ、使用…
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