テーマ:戊辰戦争

慶喜の大坂城脱出

鳥羽伏見の戦いの最中に、徳川慶喜が大坂城を脱出した。 このことを、月岡芳年や長谷川貞信が「徳川治蹟年間紀事 」のシリーズの錦絵のなかで描いている。よく知られた画題「十五代 徳川慶喜公」だが、二人の錦絵はよく似た構図になっている。 この錦絵は、右端の開陽丸にこのとき蒸気役一等(機関長)として先祖の小杉雅之進が乗船しているので、気になる…
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史書を訪ねて 復古記

先週の「史書を訪ねて」で、取り上げられていたのは『復古記』 『復古記』は慶應3年(1867)の大政奉還から戊辰戦争最後の箱館戦争終結までを扱う。各家の家記の抜粋などから同じ出来事を多角的に記述してはいる。 僕にとって興味深いのは、東叡山戦記と蝦夷戦記。 東叡山戦記では彰義隊側の『斃休録』も採用し、蝦夷戦記では旧幕府側の小杉雅之…
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小杉家資料の記憶と記録 その2

昨年、小杉辰三が創設に関わった神戸製鋼所の操業時の資料を、神戸製鋼所ヘ譲渡した。 神戸製鋼所は先の大戦と時の空襲により史料は灰燼に帰しているので、今後あらたな社史を編纂するときに役に立つはずだ。 小杉辰三は慶応4年戊辰に、仙台藩烏組隊長・細谷十太夫の三男に生まれた。            細谷十太夫 戊辰戦争のおり、榎本艦隊…
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慶応4年1月の会津藩殉難者

鶴ヶ城天守閣郷土博物館の平成30年度企画展の図録『一八六八年の会津藩』を開いて、驚いたことがある。慶応4年1月7日の条に「京都、金戒光明寺を守る約百人の部隊壊滅」と記されている。 薄見寡聞の者なので誤謬があればご指摘いただきたいが、従来の数々の会津藩殉難者名簿にこの百人の記録は皆無だと思う。 会津藩は、慶喜公が慶応3年12月12…
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薩摩藩蔵屋敷跡

田町駅前の再開発 僕の住んでいた場所が大きく変わる。 報道によると、 三菱自動車本社があった第一田町ビルと隣の徳栄ビルの敷地に、高さ約150m、延べ約131,000㎡の超高層ビルが建設される。三菱地所設計が参画し、今年度に着工し、2022年度頃に完成する見込み。第一田町ビルの所有者は三菱重工で、徳栄ビルは徳栄商事。地権者は三菱…
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彰義隊と雁鍋

最近は上野戦争当日の彰義隊の戦いに関心がある。 『史談会速記録』第74輯記載の明治31年の小野保の話によると、 膠着状態のこの戦争の流れを大きく変えたのは、滋野直臣という兵士の空腹だという。 腹を満たしに黒門口傍の雁鍋に入って二階に上がってみると、手こずっていた山王台の彰義隊の砲台がよく見える。 そこで、この二階から十四…
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ディアナ号の大砲 その3

以前、沈没したディアナ号の大砲がどうなったのか調べたことがあった。 奈木盛雄『駿河湾に沈んだディアナ号』(2005年)によれば、先行研究には以下のものがあり、内容も詳しく紹介している。 ①肥田喜左衛門 「下田帖43号」(平成10年) ②斉藤利生「露艦ディアナ号の遭難とその備砲」(防衛大学校紀要44輯、昭和57年3月」 ③斉藤…
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鳥羽伏見の戦い 伏見編

先日4月14日(土)、鳥羽伏見の戦いから150周年を記念し、咸臨丸子孫の会のイベントで伏見地区の戦いの址を訪ねた。 巡ったコースは以下の通り。 明治天皇陵~乃木神社~薩摩軍大砲隊陣地~御香宮神社~魚三楼~伏見奉行所~月桂冠大倉記念館~会津軍陣地~土佐藩邸~伏見口の戦い激戦地~寺田屋 近鉄・桃山御陵駅前から最初の明治天皇陵ま…
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維新の記憶 1868年 会津戦争

1月16日の読売新聞の「維新の記憶」は、-1868年 会津戦争 記事では、 慶応4年(1868年)5月、東北と北越の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成した。旧幕府の代わり、新政府と対峙し得る勢力の誕生だった。だが、豊富な装備や戦略で上回る新政府軍を相手に、同盟側では降伏や脱退が相次ぐ。新政府軍は同年8月、会津へ進軍。戊辰戦争で最大の激…
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維新の記憶 1868年 蝦夷政府の降伏

1月23日の読売新聞の「維新の記憶」は、-1868年 蝦夷政府の降伏 見出しには、旧幕府軍 最後の戦い、とある。 旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が、開陽丸を旗艦に8隻の艦船で品川沖を抜錨し、蝦夷地を目指して江戸湾を脱出したのは、慶応4年8月19日だった。 このときの、開陽丸の蒸気役一等(今の機関長)は小杉雅之進、26歳。以下の写真…
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維新の記憶 1868年 江戸無血開城

2月6日の読売新聞夕刊の「維新の記憶」は、1868年江戸無血開城 だった。 海舟と西郷とが江戸で行った2回めの会談場所は、僕には懐かしい場所でもある。 海舟と西郷は、記事の通り、3月13日薩摩藩高輪屋敷、14日薩摩藩蔵屋敷で会談している。 海舟日記に「十三日、高輪薩州藩邸に出張、西郷吉之助へ面談す。・・・・。十四日…
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白虎隊剣舞の詩歌

白虎隊墓前祭では、春と秋の年2回、会津高等学校の剣舞委員会により、白虎隊剣舞の奉納が行われる。 剣舞は、 明治17年に日新館の漢学教師の佐原盛純により作詞された漢詩「白虎隊」の詩吟に合わせて行われる。 飯盛山には、明治41年に亡くなった佐原盛純の顕彰碑が建っている。題額は田邊太一で「佐原先生碑」とある。佐原と田邊とは、文久3…
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旧東海道を歩く 16日目(12/8) 箱根~小田原

箱根宿から、箱根旧街道(東坂)を下り、小田原宿まで歩く 前夜から気温が低く、下りの坂道の丸い石畳は朝霜が溶けて滑るおそれもあるため、注意深く下る必要がある。 箱根路は、年代によって道が移り変わっている ①碓氷道(箱根で最も古い峠路)--> ②足柄道(奈良、平安時代に利用された路)--> ③湯坂道(鎌倉、室町時代…
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旧東海道を歩く 13日目(12/5) 府中~蒲原

府中宿から、江尻宿、興津宿を通り、薩埵峠を越えて由比宿に入り、蒲原宿まで歩く。 いろんな意味で薩埵峠が楽しみなコース。 0820府中宿を出立、但し時間の都合で東静岡の先までは早駕籠に乗る。 従って、西見附から東見附の間の3.6キロある府中宿はゆっくり歩いていないため、西郷隆盛・山岡鉄舟会見所や、久能…
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海舟と西郷の会談

慶応4年の鳥羽伏見の戦いのあとから江戸開城までに、二人の間で書簡の交換や会談は何回かおこなわれる。 始まりは、山岡鉄太郎に託した西郷吉之助宛て海舟の書簡。 2月11日の江戸城重臣会議において、慶喜は恭順の意を表し、海舟に全権を委ね、自らは翌12日に東叡山大慈院に移転し謹慎した。海舟は、この徳川家の状況を、西郷に書を送り伝えようと…
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品川沖の榎本艦隊その2

「榎本艦隊最後の雄姿」との題で写真が載っている「別冊歴史読本ビジュアル版」(昭和63年)を入手した。 この写真は、『幕末・明治の日本海軍』に掲載されている写真や、Wikipeia「榎本武揚」に掲載の写真の元になったもので、説明には、「この写真は幕臣松尾一化子旧蔵の紙焼きを所持していた造船史の権威・故山高五郎氏から海事評論家の飯盛汪…
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品川沖の榎本艦隊

『幕末・明治の日本海軍』に掲載されている写真がある。 榎本艦隊が沖合に停泊している様子を撮影したものとされる。 Wikipedia「榎本武揚」などにも、同じ写真が掲載されており、手前に浜辺らしきものまで写っているのでWikipediaの掲載写真の方がオリジナルに近いと思われる。 『幕末・明治の日本海軍』やWikipedia「榎…
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『 雨窓紀聞 』と『 麥叢録 』との関係について

先日、ヤフーオークションに『雨窓紀聞 下』が出品されたのをfacebookの投稿で知った。 確認すると、商品説明は以下の通り、 [題名] 雨窓紀聞 下、[著者] 竹陰穏士(小杉雅之進) 咸臨丸蒸気方 江差奉行並、 [発行所・発行年] 北畠茂兵衛 明治6年、 [仕様] 木版本 本の大きさたて22cm×よこ15cm 総二十丁 [状…
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東軍戦死者慰霊碑の副碑 (田邊太一撰文)

明治40年に京都にて東軍慰霊四十年祭が行われ、のちにその報告書として「戊辰東軍戦死者四十年祭典及墓標建設報告書」が関係者に配られた。 その報告書には、それまで建立されてきた碑について、「戊辰伏見鳥羽淀之役東軍戦死者之碑及埋骨碑建標」の地図が収められていて、以下の碑が図示されている。 ①明治30年の三十年祭の折に建碑した「戊辰役東…
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妙教寺による東軍戦死者の回向

京都妙教寺では代々御住職が毎年2月4日に、鳥羽伏見の戦いの激戦地である千両松(八番楳木)と愛宕茶屋堤防とで慰霊を行い、本堂で法要を営んで来られた。 東京からの新選組関係者9名と京都会津会6名とで参列してきた。 妙教寺近辺の古地図 上が北 淀は、京都と大阪の間にあり、桂川と宇治川(淀川)が合流する戦略的に重要な場所だった。 …
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京都法伝寺の東軍戦死者霊名簿

京都法伝寺では、鳥羽伏見で勃発した一連の戦いで亡くなった東軍戦死者の霊名簿を所蔵されており、毎年8月には慰霊祭が行われている。 門前左側には、 「戊辰東軍戦死之碑」の刻まれた巨大な慰霊碑が建っている。 揮毫は空海の書法を究めた名筆家として知られた宮小路康文 この碑は、京都で初めて東軍慰霊祭が大々的に行われた明治30年の三十回忌…
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第22回東軍慰霊祭に参加して

今年で第22回になる戊辰役東軍殉難者慰霊祭は、京都淀の妙教寺にて行われた。 慰霊祭の式次第は以下の通り 1400  慰霊祭  於本堂     祭文奉読 井上雅雄氏(新選組井上源三郎ご子孫)     読経   妙教寺緇素一結     焼香   一同     感謝状贈呈 (㈱)大与様へ 1450 記念講演 於客殿   …
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第22回戊辰役東軍殉難者慰霊祭

またそろそろ東軍慰霊祭の季節がやってきた 今年は楽しみなことがある。 第22回目の慰霊祭は、久しぶりに京都での開催が企画され、10月4日に淀の妙教寺にて行われる。記念講演は『古絵図でたどる鳥羽伏見・淀の激戦』と題し、妙教寺ご住職がなされる。 このお寺は明治40年に京都で挙行された慰霊祭の報告書(「戊辰東軍戦死者四十年祭典及墓…
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静岡2日目 東軍関係史跡めぐり

「戊辰役東軍殉難者慰霊祭」のイベントとして企画された東軍関係の史跡めぐりに参加した。 コースは、 宝台院-->浮月楼-->山岡・西郷会見之地碑-->宝泰寺-->臨済寺-->鉄舟寺-->船宿末廣-->壮士之墓-->清見寺-->座漁荘-->万象寺-->宝台院別院 なか…
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京都における東軍慰霊碑の変遷

戊辰戦争は慶応4年1月に鳥羽・伏見に於いて勃発した。 その京都には東西両軍の慰霊碑・記念碑があるが、東軍側の慰霊碑と戦死者埋骨碑は明治30年から40年にかけて建立された。 京都守護職の本陣が最初に置かれた京都黒谷の会津墓地にも、明治40年に會津藩士の慰霊碑 「慶應之役伏見鳥羽淀会藩戦死者碑」が建立されたが、今回東軍全体としての慰霊碑…
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京都における東軍慰霊碑と霊名簿

京都南禅寺の金地院と、伏見の御香宮は、鳥羽伏見の戦いで亡くなった東軍戦死者の霊名簿を所蔵しており、その土地の東軍戦死者慰霊碑の前で個別に慰霊祭を行っていた。黒谷金戒光明寺にある会津藩の慰霊碑とは異なり、会津藩を含めた東軍戦死者全体をカバーしたものだった。 今回、金地院と御香宮を訪問し、各々の資料を比較検討してみた。 比較する対象…
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東軍慰霊祭雑感

毎年、戊辰戦争で亡くなった東軍戦死者の慰霊祭が、京都から東の各地の激戦地や遺骸などを葬ったお寺などで個別に行われている。 年間に行われる法要・慰霊祭の数はかなりの数に上る。 戦争が勃発した鳥羽伏見の京都の場合、よく知られているのは、 妙教寺ご住職による鳥羽伏見の激戦地と妙教寺での法要と、京都会津会主催で金戒光明寺西雲院ご住職に…
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彰義隊士と魚屋さん

日暮里に行くと、ランチは決まって谷中ぎんざにある鮨屋さん「魚て津」でいただく.。 この店には、安くておいしいランチも目当だが、店内に大事に飾られている「魚て津の今昔由来」の由緒書きを確認しに行くのも目的のひとつ。ここのご主人は、湯島天神下の中坂下にあった「魚て津」で修業し暖簾分けしてもらい谷中で同じ名前で店を出したのだが、本家が店をた…
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京都にある東軍慰霊碑と埋骨地碑

戊辰戦争で戦死した東軍将兵の墓は、薩摩藩や長州藩などの西軍とはその建立の経緯に大きな違いがある。 また、慰霊碑に至っては京都でも明治後年まで建立されてこなかった。ましてや鳥羽伏見の戦いで散った東軍将兵の名を刻んだ墓をみることはほとんどない。 京都黒谷金戒光明寺 会津墓地内にある「慶應之役伏見鳥羽淀会藩戦死者碑」 鳥羽伏見の戦い…
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二人の勇士

英公使パークス襲撃事件とは関係はないが、この事件からいつも想起することがある。 林田衛太郎と三枝蓊は、公使一行を護衛していた騎馬兵12名と第九連隊第二大隊分遣隊を始め前後も含め大勢の守備兵の中へたった二人で襲撃を敢行した。これとよく似た二人だけの突入襲撃事件が、同じ慶應4年に京都から遠く離れた東北で半年ほど後に起きている。 二本…
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