摂海防御の絵図

一枚の絵図がある。
神戸六甲山系の摩耶山(標高702m)から摂海(大坂湾)を望んだ絵図だ。絵図の描かれ方から、摂海防御の拠点を明示していると考えてよい。131197858135113230342.jpg
この絵図には文久3年4月26日との日付がある。誰が描いたものかわからない。

摩耶山は、大阪湾が一望できる場所なので、今でもその目的で登る人が多い。
頂上は今では掬星台と呼ばれ、そこに「八州嶺」の碑が建っている。132979805931113224209_DSCN0557.jpgこの石碑は山頂で採掘された石で昭和58年(1983)2月に建てられた。字は当時の神戸市長が書いたが、「八州嶺」と名付けられたのは幕末の頃だ。

文久3年1月3日、老中格・小笠原図書頭長行は摂海を一望するために摩耶古道を登り、摩耶山頂から和泉八カ国を望み、この地を「八州嶺」と名付けた。131197698708213100457_DSCN9709.jpg
八カ国とは、紀伊、河内、和泉、摂津、播磨、淡路、丹波、但馬の八国。
文久3年1月3日は新暦で1863年2月20日、158年前になる。

小笠原長行が摩耶山に登ったのにはもちろん理由がある。
嘉永7年(1854)9月、プチャーチンが京都の入り口として大坂の天保山沖に錨を下ろしたため、天保山は摂海防御の要として重視され、台場が築造される。
その後は大きな問題が起きなかったが、文久2年(1862)8月になって生麦事件が勃発する。
ともすれば戦争が起きかねないこの事件を契機に、また将軍家茂の翌年の上洛が正式に予定されてくるに及び、急遽、再び摂海の防御が喫緊の課題として浮上してくる。
ここで幕府は、摂海防御のプラン作りの最高責任者として小笠原長行を任命したのだった。

文久2年閏8月17日付の海軍奉行並の任命から始まる「海舟日記」にも記述があるが、
老中格として台場築造を担当し摂海防御の責任者である小笠原長行は、12月17日に摂海警衛・巡視のため、役人80余人を引き連れ品川海岸を順動丸で出帆する。
順動丸船長は荒井郁之助であり、荒井を抜擢した海舟も「船行し、摂海の警衛、武備を収むべき」との命を受け同船していた。
12月20日、順動丸は遠州灘を過ぎ摂海へ向かい、21日9ツ過ぎ(正午過ぎ)兵庫港に投錨、翌22日、天保山沖に投錨する。
23日、長行は摂海内を移動航海し、摂海とその沿岸の地勢を見る。
24日、長行は天保山にて上陸する。(17日の出帆から24日まで海舟は同行) 以後、東本願寺を宿舎として台場建造の候補地を視察する。
29日、長行は兵庫へ。(海舟は宿泊旅館へ出向き、時勢並びに摂海警衛の意見を申し述べ、書を呈す)
この日は事前に千葉重太郎、龍馬が海舟の元へ来たので、海舟は聞き取った京師の現状も話したものと思われる。
文久3年正月元日、長行は明石へ移動(海舟も午後に明石の旅館に来る)
2日、長行は兵庫へ(海舟も明石出立、兵庫の順動丸へ戻る)

そして、
3日、長行は約150名の役人を引き連れて、摂海を一望するため摩耶山に登る。
このとき、海舟も、「摩耶山に到り、バロメートルにて高度を試む。甲賀子、算定。」と日記に綴るように、甲賀源吾などと共に同行している。
この時の絵図は目にしていないが、掲載の絵図と同じようなものだったに違いない。

この後、5日、長行は泉州岸和田ヘ陸行し、6日海岸を巡覧後、海舟の乗る朝陽丸にて大坂へ移動している。
8日、宿舎の東本願寺にて海舟と会い、
10日に、海舟などと会し、摂海警衛のことを決議している。

小笠原長行は唐津藩6万石の世子だが、幕政に参画し、節目節目で意外な活躍を見せる。
海舟の案内により、順動丸や朝陽丸で摂津の海と海岸の現状を巡覧し、また地図だけで全体把握するのではなく、実際に大勢の役人を引き連れ大阪湾全体を俯瞰するために摩耶山に登る。
その後の幕末の場面にも見られる如く、決断力のある行動的な老中であった。

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