福澤諭吉の書簡

咸臨丸で渡米した乗組員で、のちに活躍する人物は多い。写真7旧幕府6挿図.JPG
木村摂津守喜毅、勝麟太郎、小野友五郎、松岡磐吉、赤松大三郎、肥田浜五郎、中濱万次郎、福澤諭吉などなど、名前を列挙するのに遑がない。
その中でも、明治時代にわたって活躍した勝麟太郎と福澤諭吉はよく聞く名前だ。

福澤諭吉を知るには、勝麟太郎と同じく、膨大な史料が残っている。幕末時代に限っても『福翁自伝』や書簡等が多数ある。
不思議なのは、諭吉が発信した書簡(の内容)が多く残っていることである。まめに書き留めていたのであろうか。

諭吉が発信した書簡で、今まで知られている最も古いものは、安政5年11月22日付の宛名不明の以下の書簡である。

 「通坂の節は、孰の罪かは存不申候へ共、遂に不得拝眉、終身の遺恨仕候。小生義も十月中旬着府仕、其後微に江戸の人物にも面会仕候。先日村田へも相訊、折角兄の御噂仕候義に御座候。村田も此節は一寸帰省致候よしに御座候。
  一、其後御国元の都合如何に御座候哉。事に依り御出府も可相成哉。夫のみ相待居申候。私も何れ三、四年は滞遊仕候様可相成、其内一度は掛御目度事と存候。尚い才は次便に可申上候。早々頓首。
    十一月廿二日       福澤諭吉 」

内容から緒方塾の学友宛と考えられている。

大阪の緒方塾の塾長をしているときに藩より江戸藩邸の蘭学塾を任す、そのための出府を命ぜられたので、いったん中津の母にその旨を報告し別れを告げてから、大坂を通過(通坂)して江戸に出ている。
口述筆記の『福翁自伝』では江戸着は10月下旬としているが、当時のこの書簡では10月中旬、とある。
江戸では、蘭学塾を開設するにあたって、先輩諸氏に意見を聞いた様子が伺われる。その中に、特に村田蔵六の名を挙げている。

出府の際、諭吉は大坂にて塾生で江戸へ行きたい者があれば連れて行こうとし、結局、岡本周吉(古川節蔵)と原田磊蔵の二人を同行しているが、おそらく同行させたい者が他にもいたが、残念ながら連絡が取れなかった。書簡はその相手へ宛と思われる。この人物を特定したいのだがまだできていない。

ところで同行した岡本周吉は、のちに幕府海軍士官になり、そして榎本海軍に属し、明治2年の宮古湾でのアボルタージュにも参加している。このとき奪取しようとした甲鉄艦は、福澤が2年前の慶応3年に軍艦受取委員の随員として渡米して米国より買い取りを約した軍艦だった。面白いめぐり合わせでもある。

福澤が中津藩江戸藩邸の蘭学塾を任され、のちに岡本が塾長となったこの蘭学塾がのちの慶應義塾へと発展していく。その意味で、この書簡はその端緒を表す書簡でもある。

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