本能寺の絵図面

11月に、日米修好通商条約の勅許奉請に関する史跡めぐりがある。
昨日はその下調べのため京都寺町の本能寺を訪ねた。01.JPG
本能寺は、使節の正使・老中首座堀田正睦の宿舎であり、また朝廷との交渉の場だった。

とりあえず僕が知りたいのは、
交渉が行われた安政5年(1858)の本能寺の敷地と建物の、当時の姿。
実は、10日ほど前にも本能寺を訪ねたのだが、このときは不首尾に終わった。何人にもお会いしたのだが当時の絵図面はないとおっしゃる。

本能寺は、
秀吉の命により四条西洞院から現在の寺町に移転したが、移転後も、1788年に天明大火で焼失し、1864年に禁門の変にてまたも焼失している。
明治維新後には、1872年の上地令にて寺領が半減し、現在の本堂は1928年に再建されているものだ。
従って、幕臣たちが交渉を行った時の本能寺は、敷地も建物も今とは異なっている。
調べたい本能寺は、1788年の天明の大火後に再建し、1864年の禁門の変にて焼失した本能寺になる。

この禁門の変により焼失した当時の敷地建物の位置関係がわかる図面がないか探していたのだが・・・・・

昨日は、まず最初に本能寺を創建した日隆上人の墓所にお参りした。08.JPG
本堂の東側に、「当山歴代諸聖人御廟」があり、その中に「開祖開山 日隆大聖人」の石塔が建っている。09.JPG

実は、御廟の中に石塔が3つあり、外から眺めて見当はついていたのだが、どれが日隆上人のものか確定したかったので、社務所にてご教示願った。勤めて間もないというお坊さんが出てこられ、お坊さんも御存じなかったので御廟の中に入り自ら確認してくださった。15.JPG11.JPG

文字がだいぶ薄れてきているが、石塔の裏に日隆の文字と寂日が刻まれている左端の石塔と判明できた。

このお坊さんに、本来の来訪の訳を話すと、なんとその絵図面はあるとおっしゃるではないか。
お坊さんが自らお寺の責任者と話をして頂き、写真であれば撮影してもよいという。
寛政11年(1799)に作製したという説明書のある絵図面だ。これで、とりあえず当時の敷地建物の絵図面を史跡めぐりの資料に載せることができる。
日隆上人の墓所にお参りしたのが良かったのか、有難いことだ。
   寛政11年作製と註のある絵図面、わざとぼかしています。IMG_0565.JPG

ところで、僕は本能寺とは縁があるといえばある。
本能寺開祖の日隆上人は、高祖母小杉としの小杉家と縁続きになる。
小杉家初代の小杉伊右衛門尚芳の6代前に、越中守護でもあった桃井播磨守直常がいる。
日隆上人は桃井直常の曾孫で、浅井城(射水郡大門町嶋)主だった桃井右馬頭直儀(桃井直常の子直和の子)と斯波義将女の益子との間に、元中2年(1385)10月14日に浅井郷で生まれ、その後、宗学の研鑚に務め、応永22年(1415)に本能寺(この時は本応寺と称す)を建立し法華宗の一派を立て、法華宗本門流および本門法華宗の祖となり、寛正5年(1464)2月25日に寂している。

また、通商条約の批准書交換の遣米使節を警護するため渡米した咸臨丸には、日隆上人と縁に連なる小杉雅之進も乗っていた。
 
そういう意味では、日米修好通商条約の交渉現場は、僕にも意味のある場所といってよいのだろう。

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