オランダ通詞の人々

2年前に開陽丸子孫の会による長崎歴史探訪の際に、講演会が開催された。
講師は『通訳たちの幕末維新』の著者・木村直樹氏。講演の中で、オランダ通詞については今村家と楢林家についても言及され、大変興味深く拝聴した。

長崎では、いつもオランダ通詞を調べることにしている。
幕末に興味を持ってから最初に訪ねた7年前は今村家の墓地を調べた。
          大音寺の今村源右衛門の墓
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そして2年前は、銅座町の聖徳寺にて楢林家墓地にお参りした。
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楢林家については、渡邊庫輔著『崎陽論攷』によると、楢林健三郎の『本邦牛痘苗輸入之始祖 楢林宋建先生小伝』(明治32年)に、楢林家は「維新以前長崎市ニ於テ左記甲乙丙ノ家ヲ楢林三家ト称シタリ、甲丙ハ世々和蘭陀通詞ノ家ニシテ、乙ハ初世ヨリ宗建ニ至ル迄医ヲ業トセリ、其三家ノ系図左ノ如シ」とあるらしいが未見である。
三家の初代は各々、甲は近江佐々木高綱の末裔の佐々木四郎右衛門(のち楢林)、乙は楢林栄久、丙は楢林栄左衛門。
乙の楢林栄久は、甲の三代新五兵衛(鎮山)のことで、佐賀藩医・楢林宋建は五代になる。
丙の楢林栄左衛門は甲の六代目重右衛門の弟ことで、そののち四代を数える。

楢林家の墓地のある聖徳寺は、天王山法輪院聖徳寺といい、寛永3年(1626) に創建された浄土宗の寺院で、山里村・渕村一帯を管轄しており、浦上キリンタンの檀家寺でもあった。
楢林家の墓地はいくつかの区画に分散しているが、甲の楢林家の墓域が一番大きい。
ここに眠る人々で、個別の墓石があるのは以下の通り。
但し、十代の楢林量一郎だけ、妻の名が墓石には刻まれていない。
初代 楢林四郎右衛門 源義政
二代 楢林三郎兵衛 源豊秀
三代 楢林新五兵衛 源豊重
四代 楢林量右衛門 源豊通
五代 楢林長右衛門 
六代 楢林重右衛門 源高通
七代 楢林重兵衛 源高暢
   楢林君平 重兵衛弟
八代 楢林泰助 
九代 楢林鉄之助 源高親
十代 楢林量一郎 源高徳
十一代 楢林種次郎 源高孝

楢林家の中でも、これからの調査にもよるがぼくにとって興味深いのは、ケンペルとかかわったであろう三代楢林新五兵衛。
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    左が楢林新五兵衛(鎮山)、「顕考成功院天誉栄久居士楢林公之墓」
    右が妻、「顕妣安養院久誉妙永大姉之墓」
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楢林新五兵衛は、元禄11年9月27日(1698年10月30日)、突如オランダ人との内通の疑いをかけられて閉戸(武家の閉門と同義)に処せられて通詞を解任される。
唐通事会所日録の元禄11年9月27日の条に「此度おらんた通事楢林新五兵衛、おらんた人之荷担仕、勤方不届之仕方有之候ニヨリ、閉戸被仰付候」とある。
楢林家系譜には「元禄五年八月二十九日、通詞ノ業ヲ嫡子量右衛門ニ譲り」とあるが、唐通事会所日録によれば、元禄11年までその職にあるので系譜の通詞職の辞職は間違いと分かる。
ところで、系譜にわざわざ書かれたこの元禄5年8月29日は西暦1692年10月9日に当たる。
実はこの直後の1692年10月31日にドイツ人医師ケンペルが甲比丹号にて長崎を去っている。この符号は何を意味するのだろうか?
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『崎陽論攷』において渡邊庫輔氏の指摘にもあるが、楢林家系譜の「元禄五年八月二十九日」は何か意味があるような気がしている。

ケンペルは、1690年(元禄3年)に来日し、1691年(元禄4年)と1692年(元禄5年)連続して江戸参府を経験している。楢林新五兵衛は、元禄3年と元禄6年は江戸番大通詞ではあったが、元禄4年と元禄5年は江戸参府はしていない。そして、ケンペルの二回目の江戸参府と帰国時の元禄5年は年番大通詞ではあった。
年番通詞の役割は長崎の貿易・外交の現地における主要交渉事務の責任者である。

ケンペルはのちに書いた『日本誌』には、通詞として横山与三右衛門(元禄4年江戸番大通詞)、本木庄太郎(元禄4年年番大通詞、元禄5年江戸番大通詞)とともに、楢林新五兵衛の名を挙げている。のちに楢林流医業を起こす楢林新五兵衛は医師ケンペルと極めて親しかったに違いない。
ただ、ケンペルが長崎滞在中に、楢林新五兵衛がどのように関わっていたのかは今となっては分からない。

『日本誌』は、収集家だったハンススローンによりケンペルの遺稿を英語に訳させ、1727年ロンドンで出版され、フランス語、オランダ語にも訳された。西洋の人々に大きな影響を与え、ゲーテ、カント、 ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、シーボルトやペリー提督にとっては来日前の教科書でもあった。
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そして日本では、享和元年(1801)になって 元オランダ通詞志筑忠雄によって和訳され、松平定信、山片蟠桃、平田篤胤、吉田松陰たちが『日本誌』を必読書としていたという。
ただ、和訳されたのが1801年であり、一般的には横山与三右衛門、本木庄太郎、楢林新五兵衛の名はこの時まで明らかになってはいない。

一方ところで、ケンペルが滞日中に精力的に資料を収集できたのは一人の日本人青年の協力が大きく、その名がのちのオランダ大通詞・今村源右衛門であると判明したのが1980年代末だった。実に300年ぶりに、『日本誌』の成立に貢献した日本人名が明らかになったのだった。
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ケンペルは源右衛門を二回の江戸参府にも従わせている。2年前に旧東海道を歩くとケンペルの顕彰碑をいくつか散見したが、もちろんその弟子については何も記されてはいなかった。
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いずれにしてもぼくにとって縁のある楢林家今村家の両家が何らかの形でケンペルに協力し、『日本誌』成立に結果的に貢献していたということになるのだろう。

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