久坂玄瑞と船越清蔵

久坂玄瑞の備忘雑録は5冊が伝わっている。
その1冊は「筆廼末仁満爾」(文久壬戊十月上浣日)とある。
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その中の或るページに「船翁墓碑之事。」とメモ書きが記されている。
これは、文久2年10月上旬からの覚書に記した短いメモだが、松陰始め一門が舩翁と尊称した船越清蔵の墓について、玄瑞がその建碑に心いたしていたことを表している。

船越清蔵は、
長州清末藩の出身だが、文政11年(1828)24歳のとき藩を出て天下を家とする処士となる。
以後長崎にて蘭方医学を学び、江戸で医業で身を立て、蝦夷地を探検する。
天保14年(1843)39歳で、京都に入り、公卿・諸国志士・処士・公卿侍・僧侶等と交友往復し、大津に塾を開ている。

嘉永4年(1851)までは北越、山陰、北陸、加州、越州を遊歴し、大津に戻る。
『睡余録』を著し外患の何者であるかを論じ、『芹羹内編』では西洋の覇政と日本の王道とを比較する。
嘉永6年(1853)ペリー来航に際しては、幕府の不法を鳴らし『敢言余録』という大文章を書いて幕府に上申し、朝廷へは『有道危言』と題し一書を奉る。
==>(幕政批判を行う)

この頃、志友との出入り・諸公卿のもとへの潜行が次第に多くなる。

安政元年(1854)、東寺義天僧正をもって『海防三策』などを三条実萬に供覧し感賞をうける。

安政5年(1858)までには同じ長州人との交流が活発になり、郷党小国剛蔵・入江九一、中谷正亮、久坂玄瑞、生田良佐、中村道太郎、杉山松助、山縣狂介などが来訪し、この人々が清蔵を松陰に推奨している。
この時、玄瑞は19歳、清蔵は54歳。
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同年8月5日に、清蔵は重大な役目を引き受ける。
中山忠能よりの依頼にて奉勅密使人選につき画生甲谷岩熊を内申し、正親町三条卿の密書と共に萩に潜行させる。
==>(長州への戊午の密勅に関わる)

この年始まった安政大獄での逮捕と処罰の理由は、大きくはふたつある。
①幕府への異論
公家や諸侯と接触し、幕府の政治や方針などについて論じたこと(幕府批判に限らず将軍継嗣問題も含まれる)。
②戊午の密勅関係
井伊大老批判の内勅に直接間接に接触したこと。
上述のごとく、船越清蔵はこの二つに触れており、逮捕から逃れるため、12月に密かに大津を発し、萩に向かう。

高杉晋作は大獄の渦中に萩にいる清蔵を心配して、安政6年4月1日付久坂玄瑞宛書簡に、
〇「清水浪人先生来萩之由、何レ早クドコカ在向ヘ引籠る宜鋪からんカト奉愚察候」と書く。

安政の大獄も落ち着いてきた頃、玄瑞は萩から東行(江戸に出立)するが、江戸に着してから佐世八十郎・入江杉蔵に送った万延元年5月19日付書簡に、出立時に宮市まで見送ってくれた清蔵を以下のように書く。二人の親密度が窺い知れる。
「再白船越翁送余至宮市、老人愛予太切、此度東行後好便もあれば諸藩報ずべしと約置候得共御送可然ば御送可被下候必ず此度に限らず候以上」

ところで、
清蔵は、文久2年(1862)まで、清末育英館・長府敬業館・萩明倫館にて講筵を行い、また、清末侯・長府侯・萩侯に侍講を行っていく。

そんな中、萩明倫館に招聘されていた清蔵は、藩主毛利慶親に歴史の御進講をした時に、尊王の立場に立ち、毛利家の始祖・大江広元は朝廷を守るべき貴族でありながら鎌倉幕府を輔けて朝廷衰微の原因となった論を述べる。守旧派の萩藩士はこれに激昂する。
8月7日、萩城下を発ち郷里へ帰途の途中で赤郷村絵堂宿に泊まる。
8月8日、清蔵を送ってきた萩藩士は毒を盛り、清蔵は美祢郡絵堂で黒血を吐いて倒れて急死した。

清蔵が死去した頃、久坂玄瑞は京にあった。
知らせを聞いた時の玄瑞の様子は伝わっていないが、江戸への出発の間際の10月27日に吉田玄蕃にあてた書簡が残っている。清蔵の墓碑を建立すべく吉田玄蕃に依頼し、「船翁墓碑之事。」と書いたメモを実践しているのがわかる。
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時々以御保護為国萬ニ奉礼候 已上
先以御安泰被為在候処奉
〇賀候先日来度々御入
来難有奉萬謝候さてハ此
度舩越墓之事彼是御懇
切ニ被成候ハい可尓も(いかにも)御礼申上様
無之次第奉存候小生も急ニ
今夕より東行え〇ニ有之
参上為不仕〇〇候〇〇
右之如〇御頼申上候長後
之処同藩へも被仰渡
候様奉礼候早々〇〇
     十月念七 

そして、玄瑞たちが品川に潜伏し御殿山英国公使館の焼き討ちを計画している頃の11月18日、京都霊山にて、吉田玄蕃の祭主により、萩藩主の使者が派遣され長藩50人程が参詣し船越清蔵の神葬祭を行った。

このあたりの経緯を吉田玄蕃は明治27年の書付に残している。
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長州久坂義助之玄瑞申者
戊午已来 懇意書返々
趣旨者霊山におゐて 殉難士
埋葬之始 豊浦士舩越清蔵
山陰道遊歴京地ニ来厚相交
湖南大津親族之亭ニ寓居 鴻業ヲ
開戊午年〇〇来
朝議不隠密心痛シ 夜々講〇〇〇
密ニ京ニ登 夜中余門戸ヲ叩日々之
朝議洩伺或ハ悦或ハ激シ夜中
議奏方之玄関ニ拘事度々有之
嫌疑有テ長州人国へ引取文久二年
〇澤侯子入京之際、亡命人之一人也
子細有テ同盟人数名帰国被為命
其後国元ニ而病死ス 兼而神葬祭
依頼有之 仍而霊山ニ印〇納地所之
求ニ付而ハ廣ク求置度 久坂氏其他
被頼墓碑建築門人等ハ有志中を以
戊午年三條右府公より下賜号
之二字相加へ 澤主水正宣嘉朝臣
筆蹟也
 明治二十七年十一月  日
       正七位 吉田黙

以上のことから、船越清蔵は、久坂玄瑞が発議し依頼し、霊山での最初の神葬祭を行った志士とわかる。
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墓銘は「精勇船越守愚之墓」、精勇は三条実萬公より下賜され、揮毫は澤主水正宣嘉卿による。

参考:吉田玄蕃の明治27年の書付は、梅田昌彦氏の翻刻に負うところが多い.。

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