適塾の謎

先日たまたま適塾の前を通った。去年の大阪北部地震による災害復旧工事のため開館していなかった。
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適塾はいつもこのアングルからの撮影が多い。

思えば、ぼくと適塾との付き合いは長い。
半世紀前になるが、1970年に勤め始めた会社の本社近くに旧瓦町適塾があり、本社の裏の古手町には除痘館跡があった。また40年後の2008年に本社が今橋に移転したが、この場所も、弘化2年12月に瓦町から移転した過書町適塾の数分圏内だった。
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そのため、昼休みを利用してこれまで何回も適塾を見学した。
また、奈良から宝塚に転居して20数年になるが、住み始めて直ぐ近所の手塚治虫記念館に出かけて治虫の曽祖父・手塚良仙を主人公にした「陽だまりの樹」を丸一日かけて読んだこともあって、その舞台となった適塾に改めて親しみが沸いたのだった。
特に適塾との関係が、趣味として10数年前に先祖調査をするようになってから深くなった。
一つは、先祖縁者の佐賀藩医・楢林宗建が牛痘法による種痘に成功し、宗建の開発した痘苗(ワクチン)を、緒方洪庵が嘉永2年(1849)11月に京都経由で導入し大坂古手町に除痘館を開設したこと。
一つは、除痘館開設の嘉永2年11月に、正井一族の神戸の正井正策に痘苗(ワクチン)が分苗されていること。
一つは、明治22年に大坂今橋の緒方家に洪庵の二男・惟準を三吉慎蔵が訪ねたことがあること。
そんなわけで、適塾には関心が尽きないのだけれど、実は分からないこともいくつかある。
①ヅーフ部屋の位置
②塾生50人が使用する便所の位置
など
ヅーフ部屋については、
『三田評論』2008年11月号に、「立ち読み 慶應義塾史跡めぐり 第29回」として、加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)が書いた緒方洪庵先生の記事の中で、
「塾生大部屋の奥にはヅーフ辞書が置かれていた6畳のヅーフ部屋がある。ヅーフ辞書とは出島のオランダ商館長ヅーフがフランソワ・ハルマの蘭仏辞書を元に作成した手書きの蘭和辞書である。当時は極めて貴重で適塾にも一部しかなく、『福翁自伝』にあるように、会読の前の晩は、ヅーフ部屋に5人も10人も群をなして無言で字引を引きつつ勉強しているという状況であった。今はヅーフ部屋の中央にショーケースが置かれ、ヅーフ辞書が展示されている。しかし、このヅーフ辞書は塾生遠州藩岡村義理の子、義昌の所持本で、適塾に備えられていたものではない。適塾に備えられていたヅーフ辞書は、洪庵が江戸に発つ際の混雑の折、紛失してしまったという。ヅーフ部屋の位置については、その隣が女中部屋であったこと、しかも塾生大部屋と行き来ができなかったという説もあり、疑問を投げかける向きもある。」
と書いている。
疑問は、『適塾』第34号(2001年刊)にて芝哲夫氏が、投げかけている。
曰く、「現在のヅーフ部屋の南側は女中部屋と伝えられている。ヅーフ部屋のふすま一つ隔てた隣の部屋に女中が寝ているという状況はどうも不自然である。また修復工事の時に、このヅーフ部屋と塾生部屋との間のくぐり戸はなく壁で閉じられていたという調査結果が出ている。」
として、様々な記述から、
ヅーフ部屋は、一階中庭の洪庵の書斎の裏側(北側)にある三畳部屋であろうと、推論している。
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2Fの21塾生部屋と24ヅーフ部屋との間はくぐり戸はなく壁で仕切られていた、という調査結果がある。ただし適塾時代も閉じられていたのかは確定はしていない。
芝氏は、1Fの12緒方洪庵の書斎の隣の8がヅーフ部屋との説。

昭和12年当時の、旧適塾の建物を使用していた病院の平面図
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芝氏の説では、1Fの手術室がヅーフ部屋に当たる。

ただ、次号『適塾』第35号(2002年刊)にて実際に明治時代から大正時代にかけて適塾の建物に在住した洪庵の曾孫の緒方裁吉は、ヅーフ部屋の位置は現在の2階でよろしいと反論している。
このヅーフ部屋と塾生用の便所の位置について、決着は未だついていなかったのではないだろうか?

参考:芝哲夫『適塾の謎』

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