芝公園と人物

僕の中学・高校は芝公園の中にある。
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住所はオランダ大使館や金地院と同じ3丁目。
隣の芝公園4丁目には、東京タワー、増上寺、芝東照宮などがあり、また都心で最大級の前方後円墳の芝丸山古墳などがある。これらは通学途中にあり遊び場だった。
芝公園のほとんどはもともとは増上寺の敷地だったが、多くは明治新政府により上地させられている。
芝公園の辺りは、明治から大正にかけて、原敬をはじめ松方正義や桂太郎の私邸があり、さながら宰相街といった風情だった。原は芝公園内の私邸(芝公園7-4:現芝公園3丁目)をベースに政財界で活躍し、伊藤博文を中心に結成され、原によって育て上げられた立憲政友会の本部も芝公園内にあった。
芝公園に住んだ有名人は多いが、たとえば幕末の武器商人のグラバーがいる。
グラバーは明治21年2月15日より、築地居留地から「芝公園53号」に居留地外居住が認められ引っ越してくる。このころは、様々に立ち上げた事業の中でもビール(キリンビール)の本格的な事業化の最中だった。
グラバーは長崎に本邸があったが、この芝別邸はもともとは淡路谷冨三郎所有の日本式の庭と純日本建築の建物を借り上げたものだった。グラバーは母屋の東西に洋式の温室を新たに設け、イギリス産の観葉植物を入れる。
母屋の内装は西半分が洋式、東半分が和式で、この和式の東端に12畳の奥座敷があった。
その床の間に丹頂の掛け軸がかけられ、地袋の上の刀架けには、海援隊の内規違反で詰め腹を切らされた上杉宗次郎(近藤長次郎)の形見となった太刀が置かれていた。
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脇差の由来は分からない。
近藤長次郎は何回か江戸に来ている。2度目の江戸出府の際には土佐藩砂村下屋敷にいた土佐藩抱工刀鍛冶左行秀を頼りにし出府する。グラバーが所蔵していたのは、このとき行秀が長次郎のために造った差料ではないかと思われる。
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写真を見ると、上背に対して実に長大な刀を指している。長崎で長次郎をイギリスに留学させる骨を折ったグラバーは、長次郎が小曾根乾堂邸にて自裁したとき、刀をもらう約束をしていたとして、この刀を海援隊に談判し入手したのだった。
ところが、このグラバーの別邸は5年後の明治26年3月20日、自宅から出火し、全焼する。
この時奥座敷に飾っていた長次郎の刀は一片の鉄くずと化してしまう。
面白いことに、グラバー邸の隣には志賀邸があり、この火事で延焼し納屋が全焼している。
このときの戸主は志賀直温で、二男で学習院初等科に通学していたのが、のちに作家となる志賀直哉だった。
志賀直哉の学習院での同期には、榎本武揚の二男春之助や、高祖母小杉としの甥・小杉吉也がいた。
これらのことは、中学高校時代のぼくにとっては、全く未知のことだった。

参考:『明治建国の洋商 トーマス・B・グラバー始末』

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