西村捨三をご存知ですか

僕が西村捨三に興味を持ったのは、「贈右大臣大久保公哀悼碑」の建立と京都時代祭がきっかけだった。
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西村は、暗殺された大久保利通のため、遭難5年後から遭難の地に「贈右大臣大久保公哀悼碑」を建立せんと尽力し、明治21年(1888)5月に完成させる。
大久保が遭難した場所は、北白川宮能久親王の宮殿のある、旧紀州藩中屋敷の近くだったため、建碑の場所を巡って、北白川宮の御付であった三吉慎蔵と交渉している。
その結果、北白川宮家は敷地を分与し、その場所が「哀悼碑」が建っている現在の清水谷公園だ。従って、今でもこの公園は千代田区の管轄ではなく国の管轄となっている。

この哀悼碑は、西村が関わった顕彰事業の中でも初期の代表例で、これ以外にも、楠木正行を祀る四条畷神社、日清戦争時の征清軍記念碑、木村長門守重成表忠碑、木曽三川の治水にかかわる宝暦治水碑などがあり、西村は忠臣・義人の顕彰家として顕彰事業に大きく関わっていく。

明治22年(1889)に大阪府知事に就任すると、楠木正行の誠忠純孝を顕彰せんとして、「四条畷神社」の創建に尽力し、明治23年(1890)には本殿の竣工にこぎ着け、神霊奉納式を行い、大々的に3日間にわたり鎮座祭を行う。このとき、吉野如意輪堂にて死を決し過去帳に記名した143人の一族郎党を再現するため、小学校生徒143人を選び、新調した狩衣・烏帽子・弓矢筒を携えて神輿に随行させ神幸祭を行った。

5年後の明治28年(1895)に、京都において第4回内国勧業博覧会と平安遷都千百年記念祭が挙行されたが、農商務省での推進者は佐野常民と西村捨三だった。とくに農商務省の事実上の責任者は西村で、この時同時に時代祭も発案している。これは5年前の「四条畷神社」での神幸祭を踏襲している。

この時代祭では、丹波の国北桑田郡山国村(現在・右京区京北)の有志が山国隊を組織し官軍に参加した当時の行装を模して行列の先頭を行軍した。そこでは、三斎羽織に義経袴をはき、下には筒袖の衣、頭に鉢巻または赤熊(しゃぐま)をかぶり、脚絆、足袋、草鞋をはき、刀を身につけ、鉄砲を携え、鼓笛隊を先頭に登場する。
     明治28年の最初の時代祭
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     最近の時代祭の山国隊
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山国隊は因幡鳥取藩に付属し官軍に加わって戊辰戦争を戦ったが、鳥取藩士河田左久馬が隊長となり、原六郎らが司令士として指揮を執った。

僕にとって原六郎は、生野の義挙に際し先祖縁者の小山六郎と義兄弟の縁を結んだ仲であり、また、河田佐久馬と原六郎は上野戦争にて、黒門口を守っていた高祖父・河島由路、由之親子を雁鍋から銃撃した可能性がある人物だった。縁とは不思議なものである。

そして、西村捨三は、明治34年(1901)に故郷の彦根にて、藩祖井伊直政卿開城三百年祭を盛大に挙行する。この記念祭でも、直政の「御魂」を載せた輿が盛大な行列で、佐和山神社と彦根城とを往復する神幸祭を行っている。

つまり、「四条畷神社」創建と神幸祭、「平安神宮」創建と時代祭、井伊直政卿三百年祭での神幸祭という時期と地域を異にする三つの祭礼・祝祭が西村捨三を通じてつながっている。

参考: 『近代京都研究』「旧彦根藩士西村捨三における<京都の祝祭>、そして彦根」

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