本能寺と咸臨丸

先日、京都での日米修好通商条約勅許奉請の使節の史跡めぐりに参加した。
使節の正使・老中首座堀田正睦の宿舎は寺町の本能寺で、ここが朝廷との交渉の場だった。
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通商条約関係でこの場所を訪ねたとき、実は因縁めいたものを感じたのだった。
本能寺を創建した日隆上人は、高祖母小杉としの実家・小杉家と縁続きになる。通商条約の批准書交換の遣米使節を警護するため渡米した咸臨丸には、日隆上人と縁に連なる小杉雅之進が乗っていた。

小杉家と日隆上人との関係は以下の通り。
小杉家初代の小杉伊右衛門尚芳の6代前に、越中守護でもあった桃井播磨守直常がいる。
日隆上人は桃井直常の曾孫で、浅井城(射水郡大門町嶋)主だった桃井右馬頭直儀(桃井直常の子直和の子)と斯波義将女の益子との間に、元中2年(1385)10月14日に浅井郷で生まれ、寛正5年(1464)2月25日に寂している。

日隆上人は、10歳で郷里の遠成寺に入り、18歳のときに上洛して妙本寺(現妙顕寺)の日霽(にっせい)に師事し、父桃井直儀の弟で日隆の叔父にあたる日存・日道の学舎に入って慶林房日立と称した。
日隆に改めたのは永享5年(1433)になる。

当時の法華宗はすっかり貴族化してしまっていて、 妙本寺の跡を継いだ公家出身の月明(がつみょう)もその例にもれず、権力に迎合し寺の行儀は乱れ、日蓮の教えも曲げられてしまう状態だった。

そこで日隆上人は、同志とともに改革運動を起こし、再三にわたり月明を折伏したが聞き入れらなかったため、日存・日道とともに妙本寺を去り、宗学の研鑚に務め、応永22年(1415)に本能寺(この時は本応寺と称す)を建立し、法華宗の一派を立て、法華宗本門流および本門法華宗の祖となる。

その後、法華宗内の対立や、応仁の乱・本能寺の変などの戦乱、秀吉の都市計画によって5回、場所を変えている。
寺号は3回目の再興のときから「本能寺」となる。日隆上人自身が関わったのは最初の3回で、信長が自刃したときの本能寺は4回目の場所になる。

本能寺は、創建から現在まで以下の経過をたどっている。
①1415年 日隆上人が油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立(第1の建立)
  1418年 妙本寺五世・月明との宗内対立の結果、妙本寺衆徒により破却される
②1429年 日隆上人が小袖屋宗句の援助により内野に建立(第2の建立)
③1433年 日隆上人が如意王丸を願主に六角大宮に本能寺を建立(第3の建立)
  1536年 天文法乱にて延暦寺の焼き討ちに遭う
④1545年 日承上人が四条西洞院に建立(第4の建立)
  1582年 本能寺の変にて焼失。信長自害
⑤1592年 秀吉の命にて現在地の寺町御池に移転、日衍聖人が建立(第5の建立)
  1788年 天明大火で焼失
⑥1840年 日恩上人が再建(第6の建立)
  1864年 蛤御門の変にて焼失
  1872年 上地令にて寺領が半減する
⑦1928年 現在の本堂再建(第7の建立)

参考:「本能寺の変遷」 (京都市埋蔵文化財研究所)
   「本能寺の変」を調査する (京都市埋蔵文化財研究所)
   「南北朝の動乱と桃井直常」(富山県立富山高校)


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