通商条約勅許使節の史跡巡り

先日、京都にて史跡めぐりに参加してきた。
テーマは、日米修好通商条約の勅許を得るため、安政5年2月4日~4月5日まで滞京した幕臣たちの跡をたどること。
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今回の史跡めぐりは、岩瀬忠震が宿泊した瑞泉寺での、有志による岩瀬忠震・橋本左内顕彰碑の建碑を記念して企画された。
岩瀬忠震は、海防掛目付として開国に向けて中心的役割を演じ、滞京の折も、松平春嶽の懐刀・橋本左内とも親しく条約勅許・将軍継嗣の件について意見の交換を行っている。

今回個人的には、日米修好通商条約の締結そして批准書交換のために尽力した幕臣たちがいたおかげで、先祖小杉雅之進も咸臨丸にて米国へ渡航できたので、その感謝も込め興味を持って関係地を訪れた。
また今秋に同様の史跡めぐりを咸臨丸子孫の会で企画しているため、その下見も兼ねている。

安政5年2月、条約勅許を求めて上京した幕臣は正使に老中首座堀田正睦、随行員に勘定奉行川路聖謨、目付岩瀬忠震、奥右筆組頭原弥十郎、両番各奥右筆立田録助、勘定組頭高橋平作、細工頭各徒目付平山謙次郎、勘定日下部伊官之丞がいた。
2月4日に川路聖謨が京都に先着し、5日に堀田正睦、岩瀬忠震たちが到着する。
2月9日に堀田正睦が参内し、条約勅許を奏請する。このとき小御所で孝明天皇と対面している。
朝廷と交渉を続けるが結局、
3月20日に朝廷は堀田正睦に条約調印の不可を返答し、ここに条約勅許の奏請は失敗する。
3月25日に岩瀬忠震は朝廷に絶望し、堀田正睦の先発として京を発し江戸へ向かう。
4月5日に堀田正睦や川路聖謨たちは条約勅許に失敗、朝廷より帰府の許可を得て京を出立する。

今回の史跡めぐりは、集合場所の四条から近辺の幕末史跡を訪ねたあと、堀田正睦、岩瀬忠震、川路聖謨など幕臣たちの宿所を訪ねた。もちろん幕末京都での火災のためほとんどは当時の建物ではないが、岩瀬忠震の宿所は唯一当時の面影を残している。

コースは、幕臣たちの宿舎となった寺のある、四条の裏寺町通りから、三条へと抜ける。
法界寺-->誓願寺-->矢田寺-->天性寺-->本能寺-->瑞泉寺

法界寺は、岩瀬忠震の下で働いていた、徒目付 平山健次郎の宿舎
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誓願寺は、川路聖謨の下で働いていた、奥右筆組頭 原弥十郎の宿舎
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矢田寺は、奥右筆 立田録助の宿所
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天性寺は、勘定奉行 川路聖謨の宿舎
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本能寺は、老中首座 堀田正睦の宿舎で、滞京中の朝廷との条約勅許の交渉はこの寺で行われた。
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瑞泉寺は、目付 岩瀬忠震の宿舎で、幕末の戦災で焼けずに当時の姿を残している。
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今回の条約勅許使節史跡巡りは、なかなかマニアックで得難い史蹟めぐりでした。企画し実施された皆様に感謝いたします。
最後は、三条の池田屋にて懇親会。断酒中にも拘わらず、たっぷりと飲んでしまった。

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条約勅許奉請前後の幕臣たちの活動はおおよそ以下の経過をたどる。


<<岩瀬忠震、通商条約の全権委員となり、ハリスと談判開始>>
○安政4年
・11月13日、目付岩瀬肥後守忠震が「アメリカ使節出府に付、右御用取扱うべき旨」の命を受ける。
・12月4日、ハリスと通商条約を協議をする日本側委員2名として下田奉行井上信濃守清直、岩瀬肥前守忠震に全権委任状が与えられる。井上清直はハリスとの間で通商条約にもつながる下田条約を結んだ経緯がある。
・12月9日、 条約締結の談判を正式に開始するため、井上清直、岩瀬忠震の両全権委員がハリスを宿所の蛮書調所に訪問する。
・12月11日、ハリスとの間で通商条約の談判が開始され、安政5年1月12日まで都合15回行われる。
・12月25日、9回目の会談において通商条約の草案が完成する。 日本側はワシントンに日本人使節を派遣すると提案(岩瀬忠震の提案と思われる)し、第16条が修正され条約はワシントンで批准されることになる。


<<条約案を大名諸侯に諮り、朝廷の勅許奉請が決まる>>
・12月28日と翌日に分け、在府の大名諸侯に対し、米国との通商条約締結について意見を問う説明会が行われる。
・12月29日上野吉井藩主・松平信発は一人進み出て意見し、勅命を待たず条約を結ぶの非なる事、また櫻銀(一分銀)三枚を以て洋銀一ドルに換ふるは不平等で害ある事を極論する。これに岩瀬忠震も反論できなかった。

○安政5年
・1月4日、第11回の会談において、岩瀬忠震,井上清直は、条約調印には天皇の承認が必要と述べ3月5日まで調印を延期させる。日本側は大多数の大名らを鎮静させるため、閣老会議の一人を京に送り、国の精神的指導者の認可を求めたいと述べる。
・1月9日、老中首座堀田備中守正睦が条約勅許奏請のため上京するにあたり、勘定奉行川路聖謨、目付岩瀬忠震以下、奥右筆組頭原弥十郎、両番各奥右筆立田録助、勘定組頭高橋平作、細工頭各徒目付平山謙二郎、勘定日下部伊官之丞が随行を命ぜられる。 老中首座堀田正睦自らの上京を奬めたのは岩瀬忠震と言われる。
・1月11日、長野主膳義言は井伊直弼より、堀田正睦より先に上京し、条約勅許の件、関白殿下に速やかに勅許が得られるよう願って欲しいと依頼され、江戸を出発する。


<<条約勅許使節の上京>>
・1月20日、堀田正睦、随行を命ぜられていた岩瀬忠震が江戸を出発し、京都へ向かう。 堀田正睦は使命の達成は容易なものと考えていた。
・2月4日、川路聖謨が京都に先着。
・2月5日、堀田正睦、岩瀬忠震が京都に到着。堀田正睦は滞京中、宿舎の本能寺を中心として朝廷工作を行う。
・2月9日、堀田正睦が参内し日米通商条約調印の勅許を奏請する。午後3時すぎ、小御所で天皇と対面、天盃を賜う。堀田は将軍よりの献上品を持参する。


<<条約勅許奉請と説得開始>>
・2月11日、堀田正睦は宿舎の本能寺に両武家伝奏(広橋光成、東坊城聡長)、三議奏(久我建通、徳大寺公純、万里小路正房)を招き条約調印の勅許奏請に対する朝旨を乞う。
所司代本多美濃守忠民、岩瀬忠震、川路聖謨が同席し、岩瀬と川路が交代で西洋事情を説明し、外交のやむべからざることを述べる。 資料として「米使対話書」八冊と「条約草案演説書」を差し出す。
・2月13日、上奏文の内容は了解しない、いま一度人心一致の計略を議定するようにとの非公式な回答がある。 この時、堀田正睦は去る11日に外国事情について随員らと演説した趣旨を認めた長文の書取を提出する。 この時の覚書の内容  ヨーロッパ各国の乱が治まり交易が盛んになっている。五大州は悉く交易・和親の盟約をする勢いである。漢土でさえも諸国と条約を定め、琉球もフランス、英国、米国と条約を結んでいる。
・2月17日、堀田正睦の陳情に対し朝議が開かれる。中山忠能は夷人の姦計は恐れるべき国患を除くべし。鷹司政通は和親貿易説であった。 朝廷は条約草案および堀田正睦の陳情書を廷臣に回示して意見を言上させる。新しい意見は出ず、多くは前言を繰り返していた。
・2月20日、 川路聖謨は正午頃に青蓮院を訪れたが、酒饌を供されたうえ、親王はまるで幕府勘定所で歓談しているかのような打ち解けた話し振りで、しかも「京都へ参り、六、七年中、関東の人と、かくはなしたることなし。全く奈良以来の懇意、別段なること也」と懐かしそうに語るのを良いことに川路聖謨はつい長居をした。
長野主膳義言が彦根に帰る。帰ると堀田正睦より、諸藩の家臣が堂上廷臣に打ち払いを入説しているので、至急に探索せよとの指令が届いたと、井伊派の勘定奉行石谷・清(イシガヤアツキヨ)の内報を知らせる宇津木の15日付の書簡と共に、17日付の書簡で、しばらく疑惑を避けるため彦根に滞留せよとの急便が長野主膳義言に達した。 夕方、長野義言のもとに島田左近から早飛脚が来る。「将軍継嗣の件、一橋慶喜に決まりそうである」。この報で長野は翌朝京都へ出発する。
・2月21日、 堀田正睦は宿所に武家伝奏前権大納言広橋光成(みつしげ)・同前権大納言東坊城聡長(ひがしぼうじょうときなが)及び議奏権大納言久我建通・同権大納言万里小路(までのこうじ)正房・同権大納言徳大寺公純の五人を招き、第一回目の会談が行われる。
朝議において外交の件は九条関白が出した案の諸大名に台命を下し再議すべしと決定。
・3月1日、堀田正睦は、ハリスに対し先に提示してあった調印期限(3月5日)までには帰府できないことを知らせる。また、委細は全権委員の井上清直と談判すべき旨も知らせる。


<<条約勅許を再奉請と 朝廷議論の一変>>
・3月4日、長野主膳義言が京都を出発し彦根へ向かう。
江戸の老中の連署が京都に着く。この連署は堀田正睦の書簡に対する返事で、幕府の奉答書は、「叡慮之趣御尤之御事に思召され候得共、人心居合方之儀は、如何様にも関東にて御引請遊ばされ候間、叡慮を安んじさせられ候様遊ばされ度旨仰出され候間、此段伝奏衆迄、早々通達あるべく候。」 また、時日が延引すればハリスとの交渉は粉糾し、あるいは英使が渡来して意外の混乱を生じるかも測り難いから、早々御沙汰を賜りたいとある。
・3月5日、堀田正睦が老中の奉書を呈し勅許を奏請する
・3月6日、江戸のハリスの宿舎を井上信濃守が訪問し、京都からの堀田正睦の手紙を持ってきて、所定の日に条約に調印するという約束を守ることができないと告げる。
・3月11日、武家伝奏東坊城聡長が退役を願い出る(17日に聴許される)。これは東坊城聡長が堀田正睦側に立ち、幕府が直ちに奉答文を提出するときは、勅許が降下するであろうと黙契を与えたことが非難されたことが原因である。 太閤(鷹司政通)より東坊城聡長へ退役願いを差し出すよう内意が有る。
・3月15日、京都の儒生斎田左兵衛尉(岩瀬忠震の家臣金子文蔵の知人)が岩瀬忠震の宿舎瑞泉寺を訪問する。朝廷の議論が一変した事情を告げ、この上は金薬を使用するほかなしと述べ、鷹司政通太閤や九条関白にも出入りの所司代用達矢野敬左衛門を利用すべきと進言する。 岩瀬忠震はこの意見により、平山謙二郎を川路聖謨の旅館天性寺に遣わし相談する。
・3月16日、14日に出るはずの勅諚がなかなか下りないので、堀田正睦は勅書を促すため催促状を武家伝奏広橋光成に送る。 「この度御使い仰せ付けられ上京仕り候儀、これまでに先例これ無き大事にて、治乱盛衰の一挙に係り候。  一通り御祝儀の御使いに上京仕り候者などの御常例を以て、御取扱い下され候儀にはこれ無き 段は、申し上げ候までもこれ無く候へども、去月五日、京着よりただいままで四十日余にも相成り、条約の期も相おくれ、此の後如何様の次第に成行き申すべきや、深く痛心仕り候。
本能寺で堀田正睦、川路聖謨、岩瀬忠震が斎田左兵衛尉提案の金薬を贈る件を相談するが、もはや堂上全部を敵に廻すことになったため如何ともできない、むしろ正面から当たるべきとの結論になる。
・3月20日、朝廷は堀田正睦に条約調印の不可を指令する。ここに条約約勅許の奏請は失敗する。


<<朝廷側への再説得と失敗>>
・3月21日、堀田正睦は川路聖謨、岩瀬忠震らと協議し、午の半刻を期し議奏・武家伝奏の来訪を求める。一旦は承諾していたが夕刻に至り断られる。(内大臣三条実万が慣例により辞職したためと思われる)
・3月22日、堀田正睦が議奏万里小路正房、同裏松恭光、武家伝奏広橋光成を旅館に招く。堀田正睦は、帰府すると米国は条約の調印を迫り形勢が切迫する、往復の余裕がない場合は幕府にて決断すると述べる。 また川路聖謨、岩瀬忠震を関白、太閤等に拝謁させ海外事情について陳述させたいと申し出る。
・3月23日、朝廷で廷議がある。評議の内容は、22日に幕府側より呈せられた、不虞の変が起こったならば、幕府において臨機の処置をとって差し支えないかとの伺書についてであった。
鷹司家の侍講三国大学が江戸の中根雪江に送ったこの日付の書簡で、本能寺で武家伝奏が堀田正睦に伝達した内勅の内容が、将軍継嗣は英傑・人望・年長が条件とある。
・3月24日、堀田正睦の上書「一昨日相伺候差向異変之節寛猛両様之内御取計方之儀、此度勅答被仰出候迄之内万一異変有之節之心得相伺候義に付、右之御沙汰無之内は衆議難仕との義には無御座候事。」
九条尚忠は、今回の条約は到底勅許あらせられることは出来ないとの旨を厳達する。ここに堀田正睦の上京は無効となった。 将軍継嗣の件、急便を以て関東に報告すべき命がでる。九条関白殿下は長野義言の周旋で「年長、英傑、人望」の字を除く。堀田正睦は「年長」の2字を加えることを請う、張紙にて「年長の人を以て」の6字を加える。
(岩瀬忠震)朝廷に対し術計を尽くしたが成果なく、帰府し別策を行うと決める。橋本左内が岩瀬忠震の宿所に横山直蔵と号し来て、徹夜で談ずる。


<<将軍継嗣問題と 条約勅許使節の帰府>>
・3月25日、岩瀬忠震は堀田正睦の先発として、朝廷に絶望して京を出発し江戸へ向かう。
・3月27日、朝 橋本左内は京都を離れる。宇治の平等院を見学してから奈良に向かう。奈良法隆寺に参拝。 堀田正睦は朝廷が外国を恐れること異常と同僚へ手紙を書く。
「当地御用向き長引き候段、くれぐれ恐れ入り候へども、何分むづかしく、未だ一向万国形勢等の儀、御分りに相成らず、討論かいもこれなく、度々行向いもこれ有り候へども、推通りかね、問答も詰まり其の席限りの様に相成り、しかのみならず堂上方数人、其の外騒ぎ立て候に、両奏ともほとんど当惑の様子にこれあり、何分らち明き申さず、此の上幾度説破致し候とも、とても会得はこれ有るまじく存じ候。 委細は肥後守(岩瀬忠震)より御聞き下さるべく候。」
・3月28日、 この日付で、彦根藩家老岡本半助は、井伊直弼に対し上申する。「西の丸様も一橋様と御内定に相成り候趣、これも天朝より御内々おおせ出され御座候由」。
堀田正睦は、川路聖謨、京都町奉行浅野長祚、禁裏付岡部豊常らと江戸への帰府について相談する。なお京都所司代本多忠民とも相談する。
この日付の三国大学から中根雪江への書簡で、南紀派支持に傾いた九条関白が独断で英傑・人望の文字を除き、改めて加えるはずであった年長の二字までも削ったので、「去り乍ら口上には是非申達候事に相成候処、桜閣(堀田正睦)より、右口上之処も張紙にして下され候様との事故、張紙に相成候趣に御座候。と述べている。
・3月29日晦、策の施しようもなくなった堀田正睦は禁裏付大久保忠良をもって帰府の伺い書を武家伝奏広橋光成に送る。
・4月2日、堀田正睦の帰府を促す、幕府の使者奥右筆早川庄次部が京都に到着。
横井小楠が福井へ出発する前夜、横井小楠と橋本左内が時勢について論議する。
・4月3日、堀田正睦は、所司代本多忠民と共に参内し東帰を請う。御書付けを受ける。「夷狄が悪事を企てている時節であるから、伊勢神宮と京都は特に警衛の事。武備の整頓をしかるべき国持ちの大名に早々に命じられるようされたい」。 堀田正睦は朝議が決まり覆すことが不可能であることを悟り江戸に戻る決心をする。
朝廷の命「 蛮夷覬覦之時節につき神宮并京師殊更に警衛之義就中武備相整可然、国持之大藩早々被仰付候様被遊度、於京師先年来井伊掃部頭巳下に被仰付候へ共猶又御警衛防禦之御備如何様被仰付候哉。平常御手薄之事故御内評之義被聞食度事。」

・4月4日、朝廷に絶望した岩瀬忠震が、午後2時頃、京都より江戸に到着。
・4月5日、堀田正睦、川路聖謨が条約勅許に失敗し京都を出立す。

参考: 『木村喜毅(芥舟)宛 岩瀬忠震書簡註解』(岩瀬肥後守忠震顕彰会発行)
     幕末資料庫

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