小杉雅之進と三吉慎蔵、および前田常三郎

小杉雅之進は、幕臣で蒸気方手伝として咸臨丸で渡米している。
三吉慎蔵は、長府藩士だが、龍馬からの遺言で龍馬暗殺後、自宅でお龍を預かっている。
二人は住む世界が全く違うが、接点がある。
前田常三郎だ。
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前田常三郎は、晩年「坂本龍馬大明神」と書いた自筆の書を前によく拝んでいたという。下部には、ワイルウェフ号沈没で亡くなった亀山社中の12名などがある。

小杉雅之進は、次男だが安政4年(1857)長崎海軍伝習所三期生として入所する前に、幕府内での役職として御賄御酒世話役の職を得ている。
兄直吉は賄方で長崎奉行支配役調役出役であったが、ここは長姉としの夫・大膳職賄方の河島由路の働きがあったとみるべきなのだろう。
従って次男ではあるが幕臣として召し抱えられた。
三期生は、一期生二期生とは違い、早くから海軍士官として育てる方針のために、若い生徒が多く、雅之進も15歳であった。
蒸気方(今の機関科)に進み、当時最先端技術の蒸気機関を学ぶ。
成績が優秀だったのか、遣米使節の護衛名目で咸臨丸が随伴し渡米するときに、蒸気方手伝(見習士官)に選ばれた。
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この船には、米海軍軍人を除き、水夫50人・火焚15人を含み、96人が乗り組んでいた。
水夫の中に、塩飽諸島の佐柳島出身の前田常三郎がいた。
咸臨丸は江戸を出航して戻ってくるまで、サンフランシスコでの修理期間も合わせて約130日ほどかかっているが、
小さな船に同船し共に航海して、130日間も一緒にいれば、お互い知らないはずがないのではないだろうか。

三吉慎蔵は、薩長同盟の際、その見届けの目的を含め京都探索のために、龍馬に同道して上京する。
そして、慶応2年(1866)1月23日八ツ半頃、寺田屋にて龍馬より薩長会談の首尾を聞き酒を酌み交わしていた時に、伏見奉行所の捕吏の襲撃を受ける。
慎蔵は、共に戦い負傷した龍馬を肩にかけ逃れる、また薩摩藩邸に走り動けない龍馬を救出する。
龍馬は、銃を捨てたあと慎蔵の敵中への突入を止める、さらに材木納屋で慎蔵の割腹を止める。
お互いが命の恩人で死生を共にしたことで、二人は盟友になったのだった。
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慶応3年月23日いろは丸事件が勃発する。
万が一の時お龍を頼むとの、いわゆる龍馬の遺書を慎蔵が預かったのはこのいろは丸事件が起因であった。
このとき、いろは丸の当直士官として重要証人として賠償交渉でも活躍したのが、海援隊士の佐柳高次だった。

そして慶応3年11月15日、龍馬は京都にて暗殺される。
悲報は長崎の海援隊に11月27日に入り、お龍のいる下関に12月2日に届く。
龍馬死去を慎蔵はお龍に知らせたが、その悲報を海援隊を代表して長崎から下関に伝えたのが浦田運次郎だ。

僕の中では、幕臣の雅之進と長府藩士の慎蔵とが、(前田常三郎、佐柳高次、浦田運次郎)の三つの変名をもつ前田常三郎を媒介に結びついている。
不思議な縁といってよいのだろう。


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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です

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