河島由路と三吉慎蔵、および輪王寺宮

河島由路は、幕臣で賄方、七拾俵五人扶持の小臣。彰義隊に参加した。
三吉慎蔵は、寺田屋にて龍馬と共に幕吏に襲われからくも脱出に成功する。
この二人の接点が、輪王寺宮。
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河島由路は、屋敷は本郷湯島天神下仲坂下に所在し台所の床下に生簀があって常時生魚が遊泳し、将軍が望むと生簀から鯉などを供していた。
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近くに、湯島天神の男坂を下った辺りには江戸の名水の一つ「柳井の井」もあることからも、湧水があり生簀には適した場所だったと思われる。
慶応4年、世情が急を告げる中、徳川家の恩顧に報いるため長男由之、家臣2名とともに彰義隊に参加する。
彰義隊は、4月に江戸が開城し慶喜が江戸を退去し水戸へ移ったのちも、徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けた。
5月14日に彰義隊討伐の布告が新政府から出され、翌5月15日に輪王寺宮を盟主として戦いとなる。
河島由路は、戦いの最中、上野山下三枚橋黒門詰において湯島方面からの銃弾にて胸から背中に貫通銃創を負う。
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由之と家臣とが夜陰に乗じて秘かに屋敷内に運び込み、手当を盡したるもその甲斐なく当夜死去してしまう。
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図の左下に河島とあるのが屋敷のあった場所になる。

輪王寺宮は、5月15日、彰義隊の敗北により寛永寺を脱出し、榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に逃避する。
9月15日奥羽悦列藩同盟の中心・仙台藩が降伏、輪王寺宮も18日降伏し、11月19日に京都にて蟄居を申し付けられる。
明治3年に伏見宮に復帰・還俗し、12月にプロイセンに留学する。明治5年、弟の北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を相続し能久を名乗る。
留学中の明治9年にドイツ貴族の未亡人ベルタと婚約するが政府は反対し、翌明治10年に命令により帰国し、7月26日に京都で謹慎させられる。
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この年、三吉慎蔵は、家扶として長府毛利家に仕えていた。
9月20日宮内省から突然呼び出しを受け、宮内卿徳大寺実則代理の大丞山岡鉄太郎より宮内省御用掛、北白川宮御付の辞令を受け取る。
能久親王の御付に誰が良いか頭を悩ませたと思うが、宮内省大輔杉孫七朗の推挙によるものだった。
宮内省側は慎蔵が非職であるとして任命したため、長毛利家とひと悶着があったが、慎蔵は結果的に宮内省に勤めることになる。
10月28日、謹慎中の能久親王に会いに東海道を京に向かい、11月2日到着・参殿し、早速翌3日には家政向・内用の件などを上申している。
このあと、11月8日に能久親王とともに帰京し、全く新しい生活が始まっている。
宮家の御付、後に家令とし仕え、家政向きのすべての仕事を辞職する13年の間こなしていく。
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主なものを挙げると、能久親王の結婚・離婚・再婚、コンドル設計の御殿の建設、宮家の牧場経営、大久保利通紀念碑建設地の交渉、明治天皇の行幸、孝明天皇皇后の行啓、
岩倉具視・島津久光葬儀名代参列(於鹿児島)などなど。
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僕は個人的には、幕臣の河島由路と長府藩士の三吉慎蔵の二人の高祖父が、共に仕えた輪王寺宮を介して繋がっていることが、全く稀有なことと思っている。


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