『久坂玄瑞史料』をよんで

文久2年8月8日(1862年9月1日)に、清末藩出身の攘夷運動家・船越清蔵が毒を盛られ58歳で亡くなる。
この清蔵を慕っていた中谷正亮が35歳で病死したのも同じ日。
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こんな偶然もあるものだと思っていたのだが、改めて調べてみると正亮は実際は閏8月8日(1862年10月2日)だった。
調べるきっかけになった『久坂玄瑞史料』が昨日届いた..

この書簡集には、玄瑞と同志の中谷正亮は頻繁に出て来るし、船越清蔵の名も何回か登場している。
初めて拝見する書簡も多く掲載されている。

ただ『久坂玄瑞史料』は、今日の風潮であろうか、翻刻した時にすべてカタカナはひらがなに変換し、また一部の「ヘ」は「え」にするなど統一はされていないきらいはある。

たとえば、安政6年4月1日付玄瑞宛て書簡、
「清水浪人先生来萩之由、何レ早クドコカ在向ヘ引籠る宜鋪からんカト奉愚察候」が
「清水浪人先生来萩之由、何早くとこか在向え引籠る宜鋪からんかと奉愚察候」
僕には、前の『船越清蔵先生』の翻刻の方が書いた晋作の字の使い方もみえて、なんとなく読みやすいのだけれど。

また、『久坂玄瑞全集』との翻刻の違いも気にかかる箇所がある。
たとえば、万延元年5月19日佐世八十郎・入江杉蔵宛て玄瑞書簡
「再白船越翁送余至宮市、老人愛予太切、此度東行後好便もあれば諸藩報ずべしと約置候得共御送可然ば御送可被下候必ず此度に限らず候以上」が、
「再日、船越翁送予至宮市、老人愛予太切、此度書なし、東行後、好便もあれば諸藩報すへしと約置候得は、御送可然ば御送可被下候之事。以上。必す此度に限らす候。以上。」
「書なし」の挿入と「以上。」のダブリがある。『船越清蔵先生』も『久坂玄瑞全集』に近い。

ところで、一坂太郎氏のあとがきには、幾つか面白いことが書いてある・

①三島由紀夫の「楯の会」の名称について
一般的には、万葉集防人歌の「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は」と、江戸の歌人・橘曙覧の「大皇の 醜の御楯と いふ物は 云々」の2首に由来するとされている。
ただ、一坂太郎氏によれば、真偽のほどは確かめていないとして、久坂玄瑞に共感していた三島由紀夫は、久坂の「御楯組」から名を採ったと聞いたことがあるという。三島の自宅本棚に福本義亮編「松下村塾の偉人 久坂玄瑞」が並んでいるのがそれを裏付けるかのようだとも。

②久坂家の系図について
一坂氏が直接聞いたこととして、曾孫の久坂恵一氏が、「困ったお方」がいて、不快な思いをされ随分と心を痛めていた様子だったと。
僕はこの方には心当たりはあるが、この方にもおそらく言い分もあるのではと密かに思っている次第。一坂氏のこの一件は、書く必要のない文章ではないかと思う。

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