維新の記憶 1876 大阪会議

3月6日の読売新聞の「維新の記憶」は、1875大阪会議
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記事には、
維新を成し遂げた盟友たちは、征韓論などをめぐって対立を深めた。西郷隆盛、板垣退助、木戸孝允らは続々と政府を去り、内務卿に就いて権力を集中させた大久保利通に批判が高まる。明治8年(1875)1月~2月、大久保、木戸、板垣が大阪に集まり、妥協点を探った、
とある。

大阪に集まったのは、大阪で実業界入りしていた井上馨が、政局打開には大久保・木戸・板垣三者の連携が必要と認め、盟友の伊藤博文とともに仲介役を試みたため。
また、記事にはなかったが、実業界入りしていた五代友厚の存在も重要である。五代も斡旋に動き、自分の屋敷を大阪会議の予備会談の場に提供した。大久保・木戸・板垣の三者の思惑は全く別にあったとはいえ、井上馨や五代友厚らの斡旋によって、料理旅館「加賀伊」での大阪会議は一応成功した。

萩藩(周防国吉敷郡湯田村)出身の井上馨は、幕末志士の時代、明治の政治家・実業家の時代を生き抜き、波乱万丈の生涯を送るが、長府出身の三吉慎蔵とは、幕末、明治に何回か接点がある。

井上馨の妹厚子は、来島又兵衛の長男・森清蔵に嫁いでいる。
三吉慎蔵から見ると、船越清蔵は伯父の一人でもあるが、その船越の縁者である来島又兵衛を介して、井上馨はかなりの遠縁になる。
遠縁であることを慎蔵が知っていたかどうかは分からい。

三吉慎蔵日記には、井上馨(聞多)が何度か登場する。
おそらく初めて井上と顔を合わせたのは、
元治元年に四か国艦隊が下関に襲来し、長州藩の砲台がことごとく破壊され、和議を申し入れた翌日の8月9日と思われる。
〇 元治元年八月九日
「本日ヨリ休戦ナリ
 洋人諸台場ヘ巡回ス依テ井上聞多金子蔀諸台場引合ニ付拙者付添被 仰付候事」
沿岸の諸台場を西洋人が実況見分するのに聞多が(通訳を兼ね)同行し、慎蔵が付き添っている。
このとき聞多の妹は既に森清蔵に入嫁しているので、長府の台場で会ったこのとき、縁者と知っていた可能性はある。

このあと聞多は、9月25日にいわゆる俗論派の襲撃を受ける。
その傷を癒すために、妹厚子の嫁ぎ先である、来島又兵衛の長男・森清蔵の居る厚保の又兵衛宅へやってくる。
この時はもちろん、既に又兵衛は京都で討ち死にしている。

ところで、
三吉慎蔵の長男・米熊は明治22年3月に仏伊に留学する。
その留学の便宜を、慎蔵は当時農商務大臣の井上馨に相談し頼んでいる。
留学は、ヨーロッパでの養蚕の研究だが、もちろん農商務事業の一環ではある。

日記には、
〇明治二十二年正月六日
「米熊洋行一件ニ付磯部ニテ井上大臣別荘ヘ相談ノ件有之午前上野発ノ汽車ニテ米熊一同出発・・・・」とある。
慎蔵は当時、午前は北白川宮能久親王、午後は長府毛利元敏公に二股で仕えていた。1月4日に6日の休暇届を長府毛利家と北白川宮家に提出し、6日に磯部にいる井上馨に米熊を同行して会いに行く。そして、直接米熊の洋行の件を相談し、井上馨から快諾を得ている。
ただ、その前年から米熊と馨とは、養蚕の件について接触はしてるので、米熊の実力を認めていたためともいえるが、縁故が預かったか否かは分からない。

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