維新の記憶 1868年 蝦夷政府の降伏

1月23日の読売新聞の「維新の記憶」は、-1868年 蝦夷政府の降伏
見出しには、旧幕府軍 最後の戦い、とある。
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旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が、開陽丸を旗艦に8隻の艦船で品川沖を抜錨し、蝦夷地を目指して江戸湾を脱出したのは、慶応4年8月19日だった。
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このときの、開陽丸の蒸気役一等(今の機関長)は小杉雅之進、26歳。以下の写真の後列左端
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蒸気役一等を拝命したのは、鳥羽伏見の戦いが勃発した同年正月で、榎本武揚はこのとき開陽丸船将。
鳥羽伏見の戦いに見切りをつけ江戸に帰還する徳川慶喜以下の幹部が、開陽丸を出航させよとした際、榎本船将の留守を預かっていた澤太郎左衛門が榎本不在を理由に抵抗したことは知られている。史料はないが、雅之進も共に行動したに違いない。

蒸気役一等は機関運転の最高責任者であり、当時の日本で最新のエンジンを運転する立場にあった。
雅之進から見て、榎本は長崎海軍伝習所第二期生として蒸気方の先輩であり、前年の慶応3年3月にオランダから開陽丸が江戸に回航されてて来た時に、雅之進も開陽丸乗組員となり、最新のエンジン機関について榎本から直接指導を受けていたのだった。

品川沖を出航した開陽丸は、輸送船の帆船・美嘉保丸を2本のロープで曳航していた。美嘉保丸には子母澤寛の「逃げる旗本」の主人公・山田清五郎(のちの昌邦)21才が乗っていた。
     山田清五郎(のちの昌邦)
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この美嘉保丸は、暴風雨に巻きこまれて曳航索が切きれ、マスト2本も折れて航行不能となり、銚子の犬吠埼近くの黒生海岸へ漂着し座礁し沈没してしまう。
このとき乗っていた将兵600余名の大方は、地元漁民の救助によって助かったが、生存者は土浦方面と江戸へ向かう者に分かれた。ただ新政府軍の追撃は厳しく、多くは投降する。但し遊撃隊の伊庭八郎ら一部は逃走に成功し、榎本艦隊への再合流を果たしている。

一方、山田清五郎は難破してから江戸の深川高橋御徒士組屋敷に帰り、自首して牢に入り、後に赦免されている。

明治もだいぶ経って、小杉雅之進の養子・小杉辰三は、山田昌邦の長女光子を娶る。
昌邦は美嘉保丸の遭難の時にロープの重要さに気づき、明治20年に東京製綱を創始する。小杉辰三は明治39年に小林製鋼所(のちの神戸製鋼所)を創設している。
     小杉辰三と光子
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辰三からみると、養父・雅之進と義父・昌邦はともに旧幕府海軍士官であり、両者は開陽丸と曳航される美嘉保丸の関係にもあった。雅之進は、おそらく海軍時代の辰三に、知己の昌邦の娘を世話し、辰三は昌邦から鉄鋼分野の将来性と必要性を説かれ、海軍を辞め小林製鋼所の創設を志したのかもしれない。
そう思うと、美嘉保丸の遭難事件は、日本に二つの 会社を興す切っ掛けになったといってよいのだろう。

8月26日、開陽丸が石巻に到着する。
このとき、榎本艦隊と仙台藩との連絡を担ったのが、仙台藩士・細谷十太夫だった。
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十太夫は、戊辰戦争が始まると、ヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成する。
衝撃隊は黒装束に長脇差一本で明治新政府軍への夜襲攻撃で名をなし、鴉組と呼ばれた。新政府軍への襲撃回数は30数回に及び、その全ての戦いに勝利したという。
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開陽丸機関長の小杉雅之進と、仙台藩連絡係りの細谷十太夫とは、この石巻で昵懇となり、のちに十太夫の3男・辰三が雅之進の養子になる。

したがって、
小杉雅之進からみると、蝦夷地での戦いの前の品川脱出から石巻までの間で、養子とその未来の妻との縁を築いていたといってよいのだろう。歴史とは面白いものである。

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