維新の記憶 1866年 寺田屋事件

2017年10月17日の読売新聞「維新の記憶」は、1866年の寺田屋事件を扱っている。

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記事はおおむね正しいのだが、いくつか確定していないことや間違いも散見される。

①「慶応2年(1866)1月23日の夜、伏見奉行所の捕り方約100人旅館「寺田屋」を取り囲んだ。」、としているが、捕り方の人数は全く分からない。当時に流布した噂で約30人との説もあり、人数には幅がある。

②「龍馬は数発撃ったところで左右の親指を斬られ、流血する。」
数発とは2~3発のことだが、龍馬の書簡によると、銃は6連発銃で3発目を発射した後で指を斬られたとある。そのあと残りの2発も発射している。

③「龍馬の入京は、薩摩と長州両藩を和解に導くためだった。同月19日に寺田屋に入り、20日、京の二本松薩摩藩邸で薩長同盟締結に立ち会った。」
現在では、薩長同盟締結は近衛家別邸いわゆる「お花畑」にて21日、との説が最有力。

④また慎蔵の曾孫・三吉治敬氏の言として、
慶応3年(1867年)には、龍馬の依頼でお龍を長府の豪商方などに預け、1年にわたってかくまいました。慎蔵の長男で私の祖父・米熊はこの時、6歳。「坂本さん(お龍)はよく裏口からうちの蔵に入り、夜通し父と語り明かした。一升とっくりを差し入れる母以外、誰も寄せ付けなかった」と述懐したそうです。

前半部分はともかく後半部分は、米熊が昭和3年に没した後に作られた「三吉米熊先生」に書かれている米熊の思い出話からの引用。
だが実際の米熊の思い出には、(お龍)は出てこない。
米熊が目撃した情景は、お龍が下関の伊藤助太夫宅で龍馬と暮らし始めた、慶応3年2月10日以後と云うことが確認はできていないので、龍馬が三吉家の蔵で慎蔵と終日語り明かしたのは、実は何時の事か明確ではない。

印藤聿から慎蔵宛ての書簡が複数あるが、それによれば、
慶応2年12月20日前後の数日と翌3年3月20日は龍馬が長府の慎蔵宅に滞在している。ただ、わざわざ蔵で語り合う必要もないので、米熊の目にしたのはそのとき以外の急用で長府にやってきたときの場面と思われるのだが・・・・、残念ながら今は史料にて明確にはできない。。


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