先祖調査からの拾遺

先祖調査をしていると、不思議なことに出会う。
これを歴史の綾と勝手に呼んでいるのだが、幕末がらみを中心に幾つか挙げてみる
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①小杉雅三が、小杉雅之進と同一人物だったこと
小杉雅之進は幕臣で、長崎海軍伝習所にて修業し、咸臨丸で米国へ渡航、のちに開陽丸の機関長になり、戊辰戦争では北海道で戦い、五稜郭で降伏する。のちに品川脱走から降伏までを麦叢禄として記録を残した。
我が家の系図には、雅之進が明治になって改名した雅三の名しか伝わっていなかったため、小杉雅之進のこととはずーと知らずにいた。
雅三の姉が僕の高祖母・小杉とし(幕臣・河島由路に嫁す)になる。
あるとき、小杉家の近所のM川さんの情報(M川さんの個人メールを、あろうことか宛先の人物が自分のHPに公開してしまった)によって同一人物と気が付いたのだった。そしてこのことが契機なって先祖調査が実に大いに進んだ。
その意味では、このM川さんの情報は、僕にとっては先祖調査スタートの起爆剤のようなもので、とても感謝している。

②北海道江差に親類が見つかる
小杉雅之進の曾孫・小杉伸一氏と連絡し、お互い縁戚同志と確認が取れ、小杉家と私の河島家の系図を交換した。
そして驚いたことに、河島家の中に3代前から連絡が取れなかった縁者がいたのだが、小杉伸一氏の機転にて、所属する開陽丸子孫の会のルートで江差と函館に親戚を見つけることができた。
見つかった縁者は、北海道に来る以前の先祖のルーツ(幕臣であったこと)を、このとき初めて知ったのだった。自分の親より以前の来歴が不明だったため、とても喜ばれていた。
これを縁に、北海道との親戚付き合いが100年ぶりに復活し、お互い、咸臨丸子孫の会と開陽丸子孫の会に入会した。

③咸臨丸の航跡を辿る
咸臨丸子孫の会に入会したことが切っ掛けで、その年2010年に開催された、咸臨丸渡航150年を記念した、帆船海王丸による咸臨丸の航跡を辿る記念航海に参加できた。たまたま子孫の会からの参加者は僕だけだった。
北太平洋を25日間帆走する中で、当直を経験し、50m上のマストのてっぺんに登り、ゴールデンゲートブリッジを登檣礼でくぐるなど得難い経験ができた。特に当直作業によって、幕末の帆船と同じ操船術・航海術のイロハを学べた。
このことが縁で、帆船海王丸クラブにも入会したのだった。

④咸臨丸と開陽丸の建造場所を訪ねる
2009年に見つかった縁戚と初めて会うために北海道を訪ねたが、それは開陽丸子孫の会の函館・江差・松前・木古内の旅が縁であった。ツアーに途中参加させていただき、そしてのちに入会するきっかけにもなったのだった。
合わせて咸臨丸子孫の会にも入会し、幕末の二隻の帆船・幕府軍艦に興味を懐くきっかけにもなった。
そして昨年2015年、オランダでの開陽丸建造150周年の記念イベントに参加して、咸臨丸と開陽丸の各々の建造場所を訪ねることができた。

⑤小杉家の先祖・縁者と発祥の地
小杉家の先祖を遡ると、始祖に足利家の枝族で、源義家から10代後になる、南北朝時代の越中守護大名・桃井直常にたどり着く。
桃井氏は代々は上野国群馬郡桃井郷の荘司であり(地頭宣下は不詳)、現在の地名では群馬県北群馬郡榛東村になる。直常ら一族が住んだとされる桃井城は、榛東村の山子田字御堀に西城があり、東隣の吉岡町南下字大藪に東城があった。
この桃井郷や桃井城のあった場所は、 東の郡境を流れる利根川をはさんで川の東側は前橋市になり、しかも川沿いには、川原町、荒巻町が続く。
荒巻町は、僕が5歳から6歳まで父の仕事の都合で住んでいた場所で、まさか、利根川を挟んで向かい側が先祖の地であり、その近くに居たとは思いもよらなかった。
このことが判明したのは桃井直常を調べ始めた2015年で、直線距離で3~4キロほどしか離れておらず、まことにその奇遇に驚いた。

ところで、桃井直常には、名の知れた末裔が何人かいる。
幸若舞曲の創始者の桃井直詮は、この桃井直常の孫。
本能寺(1代目本能寺から3代目まで)を創建した日隆上人は、桃井直常の曾孫。
幕末の頃には、桃井直常の末裔に桃井道場の桃井春蔵が出ている。

⑦小杉雅之進と 三吉慎蔵とは、塩飽諸島の佐柳でリンクすること
咸臨丸の渡米時に、小杉雅之進は見習士官、佐柳島の前田常三郎は水夫として、同船していた。
常三郎は後に海援隊に入隊し、龍馬から佐柳高次と名を貰い、またのちに浦田運次郎と改名する。
いろは丸事件のときの当直士官として賠償交渉でも活躍したが、龍馬が暗殺されたときは、
長崎からお龍のいる下関へ来て、龍馬の死を(伊藤助太夫を介し)三吉慎蔵に報知した。
その意味で、幕臣の小杉雅之進と三吉慎蔵とは塩飽水夫を介して、結ばれているともいえる。

⑧三吉慎蔵と 大村益次郎とが、娘の代でリンクすること
慎蔵の娘三吉トモは、三吉家を分家し、山本玉樹を婿に迎える。
山本玉樹は、大村益次朗の跡を継いだ山本軍三郎(大村松二郎)の縁戚となるらしく、のち大村家の家職となる(但し、大村家家職ではなく、逓信省奉職との説もあり、調査中)

⑨三吉慎蔵の母方の先祖
慎蔵の実母・津原かつ子は、「善勝寺」の三女で、長府藩剣術指南役・小坂土佐九郎に入嫁した。
下関市王司の「善勝寺」の案内板によれば、かつ子の先祖は「善勝寺」を建立した稲積山城主の津原善勝で、その始祖は大内2代長門守正恒の3男正興になる。
従って、三吉慎蔵の先祖は、大内氏の系図上の始祖・百済の琳聖太子まで遡れることになる。

⑩三吉慎蔵と、河島由路とが、輪王寺宮でリンクすること
高祖父の幕臣・河島由路と、長府藩士・三吉慎蔵とは、孫同志が婚姻している。
つまり東軍と西軍の末裔が結婚したわけだが、
河島由路は幕臣として、輪王寺宮を担いだ彰義隊に参加し、上野黒門口にて被弾し戦死する。
三吉慎蔵は明治期に宮内省に奉職し、輪王寺宮が還俗した北白川宮能久親王の御付・家令として仕えている。 
つまり慎蔵と由路の両者には、輪王寺宮という共通項があった。   

⑪河島由路と 小杉雅之進とは、お互い幕臣一家で、
雅之進の姉・としが、河島由路に入嫁しているため、両家は縁戚となる。

としの姪(としの弟小杉直吉の3女)は、松平容保の次男健雄に嫁ぐ。
健雄の弟・恒雄の末裔が徳川宗家18代当主松平恒孝氏。
健雄の弟・保男の末裔が会津松平家14代当主松平保久氏。

⑫彰義隊士と寿司屋(魚屋)
彰義隊に参加した河島由路は幕臣で賄方だった。湯島天神下の屋敷の床下には生簀があり、将軍が望むと生簀から鯉などを供していた。
当主の河島由路が黒門口で被弾し戦死し、彰義隊が上野戦争で敗北して一家が屋敷から去った後、魚屋が隣町の同朋町から引っ越してくる。
魚屋は太平洋戦争後に寿司屋「魚て津」となり現代まで続くが、屋敷跡に引っ越してきた魚屋の末裔とは知らずに、この絶品の寿司屋に僕は月一度、上京の都度通っていた。
あるとき、店表に展示している「魚て津 今昔由来」をみて、幕臣の屋敷と寿司屋との浅からぬ関係に気が付いたのだった。

⑬小山六郎と小山家
10年ほど前から、温泉とカニを求めて兵庫県の日本海側へ、兵庫県中部の但馬経由で年2回の旅を始めた。
この旅の途中の但馬で、道路わきに大きな墓所を以前から何とはなしに見ていた。
その墓所が、父方の小山家先祖代々の墓と知ったのは4年前のこと。
始祖・小山耕雲斎が8世紀に建立した楽音寺の案内板によれば、小山家は鳥取・湖山の出身とある。
この先祖調査の時に、生野義挙の小山六郎の存在を知ったのだった。

⑭小山六郎と 三吉慎蔵
生野義挙に参加した六郎は、破陣後、因州屋敷で保護を受け、のちの原六郎や北垣国道と行動を共にする。
原や北垣の伝記によれば、江戸で千葉重太郎や龍馬とも会っているので、行動を共にしていた小山六郎も見知っていた可能性がある。
そして、小山六郎は、のちに高杉晋作の紹介で奇兵隊に参加するが、報国隊の三吉慎蔵とは、小倉口の戦いでは戦友の可能性が出てくる。

⑮おまけ 今村源右衛門とシドッチ
2016年、最後のバテレンと云われる宣教師シドッチの遺骸が発見された。
先祖に、オランダ通詞としては、河島家系列で今村家、小杉家関係で楢崎家がいる。
オランダ通詞の家系として、今村家と楢崎家の両家同志も、早くから代々縁続きでもある。
そして、河島由路の遠縁になる今村源右衛門は、大通詞として自らシドッチを尋問もし、新井白石の通訳も務めていたことで知られる。

その他いろいろ調べれば調べるほどとありすぎて、そろそろ調査範囲を絞ろうかと思案している今日この頃。


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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です

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