「花燃ゆ」9月13日放送 桔梗屋の辰路

今回の関心事は、久坂玄瑞の子・秀次郎の実母のこと
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秀次郎の母が、桔梗屋の辰路となったのはそんなに昔ではない。
玄瑞の曾孫(秀次郎の孫)・久坂恵一氏は当初、秀次郎の実母は佐々木ヒロとしていた。

恵一氏が、『 鴨の流れ 』創刊号(昭和48年9月10日発行)に掲載した「久坂家略伝」には、
「久坂が在京中に身の回りを世話していた佐々木ヒロが秀次郎を生んだ」としている。(また自伝『臍のつながり』にも同様に書かれている)。
秀次郎が生まれたのは、元治元年9月9日(1864年10月9日)。

『鴨の流れ』は、昭和45年に創設された「京都維新を語る会」の会報だが、恵一氏は当初からの会員でもある。入会した動機は、秀次郎の実母の調査でありその手がかりをつかむためだったと思われる。
杉民治の記録や香川政一の文から京都伏見区西柳屋町に住んでいた「佐々木ヒロ」なる女性を追跡調査していた。
久坂家の戸籍謄本には、確認していないが、秀次郎の母の名前は「井筒タツ」と記載されているらしい。

10数年後の昭和56年になって、川崎泰市氏が「京都維新を語る会」に入会する。
入会の動機は、亡くなった養父國之助の遺品整理をしているとき仏壇に宗派の異なる戒名位牌をみつけたことによる。この位牌が曽祖母の桔梗屋辰路こと竹岡タツのものであることから、調査のため入会したのだった。
そして、『 鴨の流れ 』第10号(昭和57年)に、「久坂玄瑞からの手紙と祖父母のロマンを求めて」と題し、事細かく系図・謄本・写真を20ページにわたって投稿する。

玄瑞は、元治元年7月19日(1864年8月20日)禁門の変にて自決するが、
辰路は、慶應元年5月 5日(1865年5月29日)に小八朗を生む。父親は、薫玉堂の負野小右衛門との説もある。
その後辰路は、明治3年に井筒太助の二女として入籍し、6歳の小八郎を負野に養子に出し、竹岡甚之助に嫁ぐ。
この小八郎は、明治30年代に川崎家に養子に入り、そのあとの代は國之助、泰市氏と続いていく。
泰市氏から見れば、辰路は曽祖母であり、小八朗の父親が負野小右衛門であれば玄瑞は曽祖父ではないことになる(泰市氏の御母堂は、小八郎の父親は久坂玄瑞と語っている)。

そしてここで、問題がおこる。
実母の調査を行っていた久坂恵一氏は、泰市氏が辰路の曾孫と聞き、竹岡家や川崎家の謄本等を調べるが、祖父の川崎小八朗は辰路の実子であるといっても戸籍上に記載がないことを理由に、「泰市氏は辰路の曾孫ではない」と一方的に断じる。
しかしこれは、辰路が竹岡甚之助に嫁ぐときに、辰路の長男であり泰市氏の祖父になる小八郎を負野家に養子に出したからであって、戸籍制度の整備が十分でないこの時代、川崎家の除籍謄本には載ってこないのだが・・・。

そして 『 鴨の流れ 』第12号に、久坂恵一氏が「久坂玄瑞の遺児・・・として」の題で投稿する。
このときに、秀次郎の実母を佐々木ヒロから訂正し、「秀次郎の母は京都島原の桔梗屋芸妓のお辰」と変更する。より正確には、秀次郎の実母は桔梗屋辰路との明確な史料もない中、佐々木ヒロは桔梗屋辰路と同一人であるとしたのだった。
この報告が、久坂玄瑞研究者・田中助一氏にも伝わり、『 久坂玄瑞全集 』に「久坂家略系」として久坂玄瑞の系図が掲載される。一坂太郎氏なども無批判に受け入れ、そのまま著作に記述をし始める。
こうして、秀次郎の実母は、桔梗屋辰路(=佐々木ヒロ)との説が流布して現在に至っている。

そんなわけで、
佐々木ヒロと桔梗屋辰路のこと、いつかじっくりと調べられたらと思っている。

参考:『鴨の流れ』第15号


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この記事へのコメント

秀五郎
2015年10月05日 16:05
伏見に、柳屋町ならありますけど西柳屋町ってないと思います。西桝屋町の誤記か間違いではないかと思うんですが。
そこなら、遊廓あったと思います。佐々木さんもおられました。伏見よりも島原の方がとした格式違いがあって、島原の辰路としたのではありませんか。
寸心
2015年10月05日 17:39
参考にした本「鴨の流れ」の記述をそのまま引用しました。調査不足ですね。たまたま先日墨染から悟真寺まで歩いた時に近くを通ったみたいですが、この場所の調査は残念がらしておりません。ご教示ありがとうございます。

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