「花燃ゆ」5月10日放送 松浦亀太郎

今回の関心事はやはり松浦亀太郎
松陰の様々な絵を描き残したことで有名だが、
僕にとって関心があるのは京都霊山の関係として・・・
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京都洛東霊山の霊明神社は、幕末の文久2年から戦死・変死した志士の神道祭を執り行ってきた。
この霊山での神道祭の最初の志士は誰なのか。
実はこれまで、長州清末藩の国学者・船越清蔵と信じてきていたのだが、最近、松門下生の松浦亀太郎とする説もあるのを知った。
亀太郎は、久坂玄瑞らと上洛し、公武合体・開国派であった長州萩藩士・長井雅楽の暗殺を計画したが、翻意を促されて暗殺実行を断念し、文久2年(1862)4月13日に京都粟田山にて切腹している。

一方、船越清蔵は、毛利慶親に御進講をした時に、毛利家の始祖・大江広元は朝廷を守るべき貴族でありながら鎌倉幕府を輔けて朝廷衰微の原因となった論を述べる。激昂した守旧派の萩藩守旧派によって、美祢郡絵堂にて毒を盛られ、文久2年8月8日に死去している。

確かに、死亡は亀太郎の方が4ケ月ほど早く、今は霊山にも石柱が建ち祀られている。

当時、殉難した志士たちの慰霊祭が霊山以外でも行われ始めている。

〇亀太郎が切腹した翌5月25日に大坂で行われた楠公祭祀(楠公祭)において、真木和泉守保臣は、寺田屋事件で斬殺された有馬新七・田中謙助・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・森山新五左衛門・橋口伝蔵ら8柱の霊を、慰霊のために楠正成とともに神式で祀っている。
もちろん、寺田屋事件関係者ではない亀太郎はこの中に入っていない。

〇また、翌文久3年7月、津和野藩の国学者福羽美静らは京都祇園社境内に祠を創建し、安政の大獄などの殉難者46柱を祀ろうとしたが、この小祠は幕府を憚って壊される。霊璽は福羽家に移され、祭祀が続けられる。福羽家に造られた小祠は後に靖國神社に移されて、元宮と呼ばれている。

〇この福羽美静は、前年の文久2年12月14日に霊山神社にて、長州藩士世良利貞、近江藩士西川吉輔、京都の長尾郁三郎たちと発起人になり、古川躬行を祭主として、在京の尊攘市史66名の参列のもとで安政の大獄殉難志士たちの慰霊祭を行っている。
この中に亀太郎が入っていたのかどうかは確認していない。

ところで、
霊山に神道祭にて祀られた初めての志士としては、霊明神社神主・三世村上丹波源都平(くにひら)の著述『講説稿本』には、次のように述べられている。
「高倉二条邊ニ竹御所内ニ吉田玄蕃ト申ス人ガ有リマシテ是ガ亦至テ精義勤王之人ニテ有シガ是ガ船越先生之石碑ヲ初メテ當山ニ建テラレマシテ御霊祭リヲ致サレマシタノガ精義ノ神霊ノ祭リ初メナリ」とある。
また別に、文久2年(1862)11月18日に、吉田玄蕃が祭主となり長藩50人程が参詣し萩藩主からも使者が派遣されて、神道葬(但し実葬ではなく、遺物を納めた)を行ったとの当時の記録も残っている。

以上の事から、最初に霊明神社で祀られた志士は、船越清蔵で間違いなさそうだ。
松浦亀太郎は、慶應4年に、霊山墓地を整備した時に祀られたのではないかと考えている。
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霊山にある清蔵の石柱 「清勇船越守愚之墓」
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「精勇」の文字は三条実萬卿から頂き、揮毫は澤主水止宣嘉卿による。この古い石柱は元の場所から改めて明治初年に同志の墓標と並建された。

参考:日本史総合サイト『美須麻流之珠』


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