「花燃ゆ」7月19日放送  山口から萩へ

今回のドラマの関心事は、移鎮した山口から一時的に萩へ戻ったこと
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文久3年(1863)、萩藩は藩庁を萩から山口へ移鎮する際に、5月10日の攘夷実行に当たり萩では指揮が不便なためと申立て、その月に滞京中の老中板倉勝静のもとへ居城移転を提出したが、その前から移転作業は進んでいた。
すなわち、4月16日早暁、藩主毛利慶親は湯治を名目に萩を出立し、夕方に山口の中河原御茶屋に入っている。ここを居館と定め、その一部を政事堂にあて仮政庁とする。
そして、藩士などの移住や機能の移転を進め、
10月5日には、蔵元役所、郡奉行所、代官所を移設し、
11月26日には、山口講習堂を山口明倫館と改称し、従来の明倫館は萩明倫館に名を改める。
12月6日には 萩政事堂を廃止し、山口に一本化する。
        翌元治元年10月完成した 山口御屋形の)造営図
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        山口御屋形の建物差図
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         山口御屋形の表御門枡形地形図
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長州各藩は、萩に出先機関を置いていたが、萩宗藩の藩庁が山口に移鎮するに伴い、山口にその出先機関を移設することになる。
長府藩も、文久3年に萩から山口に出先機関を移し山口在番役を置いていた。

三吉慎蔵は、翌年の元治元年4月24日に山口在番役を命ぜられる。またあわせて、山口にて若殿様御付御用弁を命ぜられる。
在番役は、萩本藩と長府藩との連絡役、長州各藩と意見調整、重要事項での会議参画など外交官的な重要な職務であったが、それ以外に、この時は若殿毛利宗五郎(のちの元敏)が山口に居住し山口明倫館に通うため、若殿様御付御用弁も付け加わっていた。
このときに若殿様御付御用弁を命ぜられたことが、その後、若殿様傳役の任をこなしたこともあり、明治時代に入って長府毛利家家扶、家令の役を勤める遠因になったものと思われる。

三吉慎蔵は、山口在番役をほぼ1年務め、慶應元年4月7日に山口在番役を免ぜられて東豊浦郡代に転任する。

今回のドラマを若干補足すると、
元治元年7月19日の禁門の変を経て、 7月23日には第1次長州征討の勅命がでる。
幕府は、8月1日に、第1次長州征討布告をしたあと、毛利慶親・定広父子から各々、諱の慶と定の字を剥奪し、毛利慶親は敬親と改め、世子毛利定広はもとの広封に戻る。
そして10月3日に、毛利敬親と広封は幕府に恭順を示すため、自主謹慎として山口から萩に移る。
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このとき廃止されていた萩政事堂が再興される。

従って、三吉慎蔵も、山口在番役のまま、10月5日には家族とともに萩に移ることになる。
一旦長府に戻っていた若殿宗五郎も、11月末に萩に来て萩明倫館に転住する。

慎蔵は、長州征伐の対応会議や出張などで1か月ほどは席の温まる暇がなく、萩にいる半年ほどの間に、様々な事件が矢次早に起きるが、とりあえず、11月3日より萩長府屋敷にて山口在番の仕事を始める。
そしてその矢先、重大事件が発生する。
長府藩内での11月8日の中山忠光卿暗殺である。
長府からの11月3日病死との届けにより、慎蔵は11月15日付けで在番役三吉慎蔵の名で忠光郷死亡を萩藩に届け出る。
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慎蔵がどこまで真相を知っていたのかは不明で、これは現在調査中である。

そして、萩に一旦戻っていた藩主毛利敬親は、
高杉晋作が12月15日に功山寺で挙兵し、翌元治2年2月21日に長州の内乱が休戦すると、3月11日に再び山口の中河原御茶屋(このときは高嶺御茶屋と改称されている)に戻ってくる。

つまり、山口移鎮が中断したのは、元治元年10月3日から、元治2年3月11日までの5か月間ほどということになる。


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