「花燃ゆ」6月21日放送  萩藩世子の毛利定広

今回のドラマの関心事は、長州萩藩世子の毛利定広
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定広は、天保10年(1839)9月22日生まれで、徳山藩毛利家から養子になり、ドラマの元治元年(1864)6月頃は数えで26才。

このとき、天保10年8月20日生まれの高杉晋作は1ケ月生まれが早いが、世子と同じ26才になる。
この年齢が実は晋作にとっては生涯大きなメリットを生み出す。
定広がまだ広封(ひろあつ)と名乗っていた嘉永7年(1854)2月、16歳の広封は将軍御目見えのため江戸に向かう。このとき世子小姓役であった晋作の父高杉小忠太も付き従い、長男晋作を伴う。
このときの高杉家の当主は又兵衛春豊で、家格は全部で120戸と数の少ない大組に属し、嫡子の小忠太は有能な能吏であった。その息子晋作は、世子広封と年齢が同じで御学友であった。
このことは後々、破天荒な行動を起こす晋作にとって、事件を起こしても許されるという特別な環境の中にいて、今後の活動にも極めて有利に働いていく。

この年嘉永7年3月に広封は将軍家定にお目見えし、正式な跡継ぎと認められ、偏諱を賜り、定広と改名する。
晋作の父小忠太は、翌安政2年(1855)に隠居した又兵衛の跡を継ぎ、晋作はこの時に嫡子となる。

因みに、小忠太の世子小姓のときの相役は長井雅楽であり、お互い親しい間柄であったので、晋作が後に航海遠略策を進める雅楽を暗殺しようともくろむ玄瑞たちの考えに同調しなかったのはここに遠因がある。

ところで、肝心の毛利定広は、明治期に元徳と改名する。
三吉慎蔵は、長府毛利家家扶・家令として、宗家毛利家の元徳の元に御機嫌伺のため出頭していることが『三吉慎蔵日記』にしばしば出てくる。
慎蔵と元徳が最後に逢った明治29年末の記述は以下の通り。

このころ慎蔵は66歳で、宮内省を退官し、長府へ住居を移した長府毛利家元敏に従い、長府に住んでいる。
12月8日に元敏の子息二人の教育方針を長府にて決め、このことを宗家毛利家協議人である井上馨と協議するため、慎蔵は上京する。
用事が済んだ後の元徳と関連する箇所を抜書きすると、
〇12月15日、午後より高輪様(元徳公)へ御機嫌伺出頭す。・・高輪様夫婦御出に付拝謁す。
〇12月20日、昨日高輪様御奥様より家内ヘ被下物あり。
      高輪様ヘ御暇乞出頭御二方様ヘ拝謁す。
そして、12月22日に下関長府に向け帰路に着き、神戸に寄って、25日に長府へ着船し、報知を受ける。
〇12月25日、
元徳様御大切に付御二方様上京の旨三嶋よりの書面受取又豊浦学校焼失の事あり実に驚く也
元徳は、慎蔵の出発の翌日23日に57歳で急死しており、慎蔵は25日になって初めてそのことを知る。
20日に元気な様子を見たばかりであったので、驚いた様子が日記に見て取れる。


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