東軍戦死者慰霊碑の副碑 (田邊太一撰文)

明治40年に京都にて東軍慰霊四十年祭が行われ、のちにその報告書として「戊辰東軍戦死者四十年祭典及墓標建設報告書」が関係者に配られた。
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その報告書には、それまで建立されてきた碑について、「戊辰伏見鳥羽淀之役東軍戦死者之碑及埋骨碑建標」の地図が収められていて、以下の碑が図示されている。
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①明治30年の三十年祭の折に建碑した「戊辰役東軍戦死者記念追悼碑」として、法伝寺、伏見奉行所跡、金地院(図の中にはない)の3ヶ所。
②明治40年に建碑した「戊辰役東軍戦死者之碑」として、悟真寺、妙教寺、長円寺の3ヶ所
③明治40年に建碑した「戊辰東軍戦死者埋骨地」として、11ヶ所。

しかし、田邊太一撰文の副碑については図示されていないが、「伏見桃山記念碑及金地院追悼碑副碑文左之通」として、碑文内容が報告書に収められている。
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この報告書によると、この碑文の表面には、
①明治30年に、銅石標(「戊辰役東軍戦死者記念追悼碑」)をこの地に建てる
②なぜ建立するのかその本末をこの副碑に別記する
③戦死者名簿は、伏見町御香宮神社と洛東金地院が所蔵する
④この副碑の建立の年月は、明治30年(に予定されている)
とある。
そして裏面には、戦死者碑の存在場所3ヶ所として、
  戦死者碑在伏見町悟真寺 納所村妙教寺淀町長円寺 
と刻んでいる。

副碑は、「戊辰役東軍戦死者記念追悼碑」のそばに、伏見奉行所跡地と金地院に各々建立された。
残念ながら伏見町誌には、伏見奉行所跡地の副碑碑文の記載はあるが、裏面の戦死者碑については、記録が残されていない。(碑文の記述にはいくつか文字に間違いも散見される)
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副碑に刻まれた建立年月は、「明治三十一年七月」と記述がある。
金地院には副碑が今も存在している。こちらの建立年月は、「明治四十年四月」と刻まれている。
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副碑を再度建碑し直したのでなければ、明治30年に建碑が計画されてから10年が経過していることになり、その遅れた理由は分からない。

副碑裏面であるが、
明治30年に副碑の建立が計画され、報告書の碑文案によれば既に「戦死者碑」の在りかが裏面に刻まれている。
「戦死者碑」であるから墓石ではないと思うので、
この「戦死者碑」は、明治40年に建立された「戊辰役東軍戦死者之碑」の謂いであれば、時系列的におかしいことになる。ただ、既に今はないが、別の碑が以前に建立されていたと考えれば筋は通る。
そうであればこの「戦死者碑」は、明治40年に「戊辰役東軍戦死者之碑」と取り換えられたのではないかと思われる。
あるいは、明治40年に、副碑の碑文を報告書に収めたときに、明治30年に計画した碑文案の中の年月を「明治三十年」としながら、裏面には明治40年の「戊辰役東軍戦死者之碑」の在り場所を記載しまったのか。(写真は金地院の副碑裏面)
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残念ながら、明治31年7月に建碑された伏見奉行所跡の副碑の裏面をみないと、その是非は確認はできない。
その意味で、伏見奉行所跡地にあった田邊太一撰文の副碑を探している。

なお、金地院の副碑の碑文は以下のように刻まれている。

慶応丁卯十月前将軍上表還政〇朝廷嘉納更有〇優詔暫視事
如故蓋将待廣徴諸侯伯大議善後事宜也俄而事變麾下士與會
桑二藩皆不平之前将軍虞變生不測拔隊下坂而〇朝廷又遣尾
越二公傳〇旨諭納其封土促其入〇朝前将軍敬〇君志誠奉〇
命意虔乃欲率小隊上京一問〇朝旨中変之故親訴事情然方斯
時擁大兵在〇輦下者概無非敵視我者而麾下士輿會桑及諸親
故諸藩簇擁扈従者数至踰萬人心洵々遂與守闘者相鬩戦彌四
日将士死者数百今茲明治三十年志者相謀建於石標茲地以慰
雄魂而別記其本末刻之石如此死者姓名今不得悉其詳而見聞
所及載在簿冊蔵之洛東金地院云
  明治四十年四月 田邊太一撰      廣瀬孫三郎書

○の部分は一文字文スペース
意味は、

慶応丁卯十月、前将軍は政を還すと上表した。
朝廷は嘉んで納め、更に、暫し政事を故(もと)の如く視よ、蓋し将に待って広く諸侯伯を徴し大いに善後の事を議するが宜しい也との、優詔があった。
俄にして事変わり、麾下の士と会津桑名二藩は皆之に不平であった。
前将軍は変の生起と不測の抜駆の隊を虞れ、大坂に下った。
朝廷もまた尾張越前の二公を遣し、その封土を納めよと諭しその入朝を促す旨を伝えた。
前将軍は君の志誠を敬い意を奉命し、つつしんで、小隊を率い上京して、朝旨中の変更の故を一問し、親しく事情を訴えんと欲した。
然るに、その時大兵を擁し輦下に在るは、概して我らを敵視するにあらざるなし。
而して、麾下の士・会津桑名及び緒親故・諸藩簇、扈従する者を擁し数は万人を越えるに至る。
人心は洵々として、遂に守り闘うものが相争い、戦いはいよいよ四日となり将士の死者数百となる。
今この明治30年に有志の者が相謀って石標をこの地に建立し以て勇敢なる魂を慰め、別にその本末を記し之を石に刻むこと、かくの如し。死者姓名は今悉くそれを詳らかには得ていないが、
見聞するところ、記載は簿冊に在って之を洛東金地院に蔵するという。
  明治四十年四月  田邊太一撰   廣瀬孫三郎書


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