下関市菊川町にて船越清蔵を訪ねる

一週間ほど前、長州清末藩の産んだ陽明学者・船越清蔵の生まれ故郷の下関市菊川町を訪問した。

清蔵については、その人物像を簡潔に述べた文がある。
「長州清末藩処士船越清蔵守愚は、明治維新の大舞台開幕の裏方を勤めた人で、表舞台に立ってはでに見得を切った人ではなかった。それは、船翁自身の性格にもよるが、その学問と信念とがそうさせたことと、小藩の処士であり、舞台が終始長州国外であったために、伝えられることが少なかったからである。
 明治維新の受胎がいつであるかは議論あるにしても、その胎動と陣痛とは長かった。船翁は同志とともにこれを自身に引請け、苦しみ抜きながら、やがて生まれ出る維新の逞しい姿を見ずに、逆旅非命に殪れた。しかも自分は格式ある素封家の独り子として生まれながら、好んで家を去って処士となり、生涯娶らず、煙酒を断ち、家を定めて安住することがなく、天下がすなわちわが家であるという生涯であった。」(『清末藩処士 船越清蔵先生』堀 哲三郎 )

若干補足すると、
船越清蔵は長州清末藩士船越孟正の長男として、文化2年(1805)8月27日岡枝村字小出に生まれた。
生誕地
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誕生地遠景
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10歳にして藩校育英館に入り、18歳のとき豊後日出の帆足万里(号愚亭)の門に学び、21才にして日田咸宜園の広瀬淡窓に師事し、23歳にして5年間の業を終えて家に帰ってくる。
そして、翌文政11年(1828)、藩許を得て家統を末妹とり10歳に譲り、家族と一族に離別して誰にも仕えず野の学者、処士となる。
諱の守愚(もりなお)は、師の帆足愚亭から名付けたものと思われる。

清蔵は、長崎にて蘭学と医術を学び自活の道を立て、諸国を遍歴して、天保8年(1837)頃江戸に出て医業を以て自活しながら天下の形勢を窺い、翌9年(1838)北蝦夷の辺地を視察して海防の急を見極め、のちに、おもに京都・大津で開塾して尊攘を唱え、王政復古にその全生涯をささげた。

ペリー来航の2年前・嘉永4年(1852)にすでに、『睡余録』を著し外患の何者であるかを論じ、また、『芹羹内編』では西洋の覇政と日本の王道とを比較している。
ペリー来航の年には、幕府の不法を鳴らし『敢言余録』という大文章を書いて幕府に上申し、朝廷へは『有道危言』と題し一書を奉った。
宮中へ出入りし天朝に咫尺し奉リ御進講申上げたこともあり、隠密行動が多く文書資料は殆ど自ら焼却しているため、著作で残っているものも少なく、詳細な事蹟は不明なことが多い。

多くを他郷で過ごしたため長州藩内有志との関係は少なかったが、吉田松陰などは清蔵に私淑していた。
松陰は25歳年上の清蔵を尊王攘夷の先覚者として認め、松陰門下も上京の折には大津に居住した清蔵の元をよく訪れていた。たとえば安政5年(1858)を例にとると、入江九一、中谷正亮、久坂玄瑞、生田良佐、中村道太郎、杉山松助、山縣狂介などが来訪し、また来島又兵衛も訪れている。
松陰と松陰門下とは清蔵を船翁と呼び、尊んでいた。
「天朝または江家の為に死せば、死其の処を得ると云ふべし。是を勉めず、徒に死せば、吾魂魄千載に慰む所なし」とよく述べ、中谷正亮は最もこの説に心酔し、久坂玄瑞も同様であったという。

安政5年(1858)7月京都で梅田雲浜などが捕縛され、安政の大獄が始まる。その渦中の安政5年末、長州へ潜かに帰国する。安政6年(1859)4月1日付の久坂玄瑞宛ての高杉晋作書簡には、「〇清水浪人先生来萩之由、何早クトコカ在向へ引籠る宜舗かランカト奉愚察候」(船越清蔵先生が萩に来られたとのこと、何れ早く何処かへ引き籠るのが宜しいのではないかと思います)とあり、当時の切迫した状況が見て取れる。
そして、清蔵は周防国右田に塾を開き、また清末育英館、長府敬業館、萩明倫館にて講義を行っていく。
文久2年(1862)萩明倫館に招聘されていた清蔵は、尊王の立場に立って、藩主毛利慶親に歴史の御進講をした時に、毛利家の始祖・大江広元は朝廷を守るべき貴族でありながら鎌倉幕府を輔けて朝廷衰微の原因となった論を述べた。守旧派の萩藩士はこれに激昂し、郷土へ帰る清蔵を送ってきたときに毒を盛り、清蔵は美祢郡絵堂で倒れて急死した。妹の夫笹尾万次郎が急遽赴いて柩を守って帰り、岡枝村小出の小丸山の祖榮に葬った。これが本にも書かれ一般的に流布している説である。

生家ちかくにあるお墓
小丸山の中腹に清蔵までの一族のお墓がある。
清蔵までの一族の墓には「船越」ではなく、「舩越」と刻まれている。
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死亡は、文久2年8月8日
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龍泉寺
船越家の菩提寺
位牌は船越家菩提寺の龍泉寺に置かれていたが、のちに子孫に渡し今はない。
残念ながら16代御住職は90才を越え、お寺は管理できていない状態にある。
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ところで、死去の様子について一つの口伝がある。
菩提寺である龍泉寺の住職は、当時13代。その2代後の15代住職のお孫さんから今回聞いた口伝だが、清蔵は絵堂で動けなくなり、妹の夫笹尾万次郎が迎えに行って連れて帰り、菊川町に帰ってから亡くなったと云う。
これが事実であれば、死因ついても再検討が必要になるかもしれない。
現在の定説がどうして生まれたのか気になる所ではある。

船越清蔵には妹が2人、とよ・とりがいる。
次妹・とよは、笹尾政綱(のち万次郎)に嫁ぐ。次男就誠は、来島家に養子に入り来島家12代を継ぐ。
就誠の養父の11代就信に姉・武がおり、その入婿が、来島又兵衛になる。

もう一人の清蔵の末妹・とりは、清蔵から家督を譲られ、清末藩医・南部宗哲の次男太平次(教)を婿に迎える。太平次は、船越家41世孟之として船越家を継ぐ。
40世船越孟正は天保10年(1839)3月19日に死去しているので、この頃家を継いでいると思われる。
この太平次の妹の南部喜久は、長府藩士・三吉十蔵の後添えとなり、三吉家に養子に入った慎蔵の養母にあたる。
三吉家の系図に、三吉太郎藤原高郡改十蔵の妻として、清末家中南部宗哲女と明記されている。
従って、 三吉慎蔵と来島又兵衛とは、船越清蔵を介して縁者ということになる。

ところで、三吉慎蔵日記の安政4年(1857)6月5日の項には、
一養母之續清末御家中舩越教果申候処伯父ニ相當リ候
 ニ付忌中届井上蔵主ヘ届候忌中五日間相愼候事
とあり、
慎蔵は、船越教(太平次、孟之)の前日4日の死去を書き記し、一家は5日間喪に服している。

岡枝村小出の小丸山には、その頂上に、清蔵以後の船越家のお墓がある。
太平次の死後、家は太平次の次男渉が継いだ。幼少にして、船越家42世にたっている。
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生家近くの岡枝小学校には、清蔵の功績を顕彰して碑が大正9年に建立されている。
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また、船越清蔵は、幕末志士が眠る京都霊山にても特別な存在である。
洛東霊山の霊明神社は、幕末時代から、戦死・変死した防長藩士の神葬祭を執り行ってきた。
霊明神社神主・三世村上丹波源都平(くにひら)の著述『講説稿本』によると、
「高倉二条邊ニ竹御所内ニ吉田玄蕃ト申ス人ガ有リマシテ是ガ亦至テ精義勤王之人ニテ有シガ是ガ船越先生之石碑ヲ初メテ當山ニ建テラレマシテ御霊祭リヲ致サレマシタノガ精義ノ神霊ノ祭リ初メナリ」とあり、
文久2年(1862)11月18日に、吉田玄蕃が祭主となり長藩50人程が参詣し萩藩主からも使者が派遣されて神葬祭(但し実葬ではなく、遺物を納めた)を行っている。
つまり、多くの幕末志士が眠る霊山での神葬祭は、船越清蔵から始まったことになる。
         霊山にある清蔵の石柱 「精勇船越守愚之墓」
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「精勇」の文字は三条実萬卿から頂き、揮毫は澤主水正宣嘉卿による。石柱は改めて明治初年に同志の墓標と並建された。

今回の菊川町訪問では多くの方にお世話になりました。
史跡めぐりでは小月の藤田さん、菊川町の冨士埜さんに大変お世話になり、また下関市教育委員会菊川支所の高坪さんからは貴重なお話を伺うことができました。有難うございます。

参考:『清末藩処士 船越清蔵先生』堀 哲三郎
   『郷土物語 第十二輯』 吉村藤船
   『忠節事蹟 第捌集貳巻之第貳』岡村貧斎


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