美嘉保丸遭難の余波

幕臣で海軍士官だった山田昌邦について、facebookで話題になり、気になって調べてみると、僕が従来より伝聞で聞いたことは間違っていた事が判明したので、記録しておきたい。

小杉雅之進は、仙台藩士で鴉組隊長の細谷十太夫の三男・辰三を養子にする。
        晩年の小杉雅之進
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        三十代前半の小杉辰三
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細谷十太夫は、新政府軍に対して、夜間、黒づくめて奇襲攻撃をかけ連戦連勝で負けしらずで、敵方から恐れられていた。
この十太夫と雅之進が知己となった所以は、開陽丸が仙台に停泊している時に、十太夫が開陽丸と仙台藩との連絡係として働いており、信頼関係ができて、それが縁で辰三を養子に迎えることになったらしい。
戊辰の年に三男として生まれた辰三はのちに、東京製綱の会長となる山田昌邦の長女光子を娶っている。
この縁談はおそらく、雅之進と昌邦とが同じ幕府海軍の士官であったことが縁となっている。
        晩年の山田昌邦
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慶應4年8月、榎本武揚率いる艦隊は蝦夷地をめざし、品川沖を脱出する。
その時,小杉雅之進は機関長として旗艦・開陽丸に乗り、開陽丸に二本の索(ロープ)で曳航されていた美嘉保丸に山田昌邦(当時は清五郎)が乗っていた。雅之進は26才、清五郎は21才だった。
美嘉保丸は、暴風雨に巻きこまれて曳航ロープが切れ、マスト2本も折れて航行不能となり、銚子の犬吠埼近くの黒生海岸へ漂着し座礁して沈没した。
このとき乗っていた将兵600余名の大方は、地元漁民の救助によって助かったが、生存者は土浦方面と江戸へ向かう者に分かれた。ただ新政府軍の追撃は厳しく、多くは投降する。但し遊撃隊の伊庭八郎ら一部は逃走に成功し、榎本艦隊への再合流を果たしている。
    美嘉保丸遭難者・刑死者の墓(静岡市寶泰寺)
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僕が間違えて覚えていたのは、「このとき、清五郎は逃亡に成功し、蝦夷地にわたり、最後は五稜郭で降伏した」ということ。
つまり、小杉雅之進と山田清五郎は、共に蝦夷地で戦い共に降伏したと、僕は伝聞で聞き覚えていたのだが、これは調べてみると間違いだった。

美嘉保丸の遭難について、『旧幕府』に山田昌邦本人の談話を記者が記事にしたものが載っている。
第四号「三嘉保丸の難破談 函館始末其二」、第六号「美嘉保異聞」の二つの記事。
難破してから江戸の深川高橋御徒士組屋敷に帰るまでが詳細に語られ、自首して牢に入り、後に赦免されたと明記している。従って箱館には行っていないと確認できる。

子母沢寛の『逃げる旗本』は読んでいないが、主人公が清五郎で、ほぼ同じ内容がつづられているらしく、底本としては『旧幕府』」の二つの記事であることは間違いがないようだ。
なお、山田昌邦は、美嘉保丸の遭難の時にロープの重要さに気づき、のちに東京製綱の創設を主導する。創設者の一人となった東京製綱株式会社の社史七十年史にも、「 『逃げる旗本』の主人公 山田昌邦翁」 の項で、『旧幕府』の記事とほぼ同じ内容の記述がある。
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また、以下の冊子にも、美嘉保丸の遭難について記述がある。
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余談だが、
小杉辰三は山田昌邦の長女光子を娶って、人生で大きな転機を迎えたのではないだろうか。
山田昌邦は明治20年の東京製綱の創始者の一人であり、辰三は明治39年の小林製鋼所(のちの神戸製鋼所)の創設者の一人。
辰三からみて、養父雅之進と義父昌邦とは、ともに旧幕府海軍士官であり、両者は開陽丸と曳航される美嘉保丸の関係にもあった。雅之進は、おそらく海軍時代の辰三に、知己の昌邦の娘を世話し、辰三は昌邦から鉄鋼分野の将来性と必要性を説かれ、海軍を辞め小林製鋼所の創設を志したのかもしれない。
そう思うと、美嘉保丸の遭難事件は、日本に二つの会社を興す切っ掛けになったといってよいのかもしれない。

  上野大雄寺の小杉雅之進夫妻と小杉辰三・光子夫妻の墓
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