会津鎮魂の旅 1日目 

会津落城の9月22日から24日まで、2泊3日で会津を1年ぶりに訪ねた。
白虎隊の会としての活動が主だが、目的はいくつかあり、以下の通り
22日、白虎隊自刃の地説明版除幕式、飯盛山一帯観光
23日、会津藩公行列見物、市内史跡めぐり
24日、飯盛山墓前祭、松平家墓地参拝
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22日
前日、大阪を高速バスで出発し当日朝郡山へ。
台風の影響で交通が混乱し、郡山市内から郡山駅まで行くのに3時間ほどかかった。
参加予定の会津戊辰戦争慰霊の集いの始まる10時頃にやっと郡山駅に到着。会津若松までのバスも鉄道も運行中止で、交通手段はレンタカーかタクシーしかない。
駅で待ち続けていただいた飯沼一元氏とともに、白虎隊の会のメンバー・中村正氏、木村健氏、高橋恵子さんと同道で、タクシーに分乗し、会津若松には12時少し前に到着した。

当日の主な活動以下の通り
12:30 飯盛山下の白虎隊の会会津支部長の店「とらぞう」に集合
14:00 飯盛山にて、自刃の地説明版の除幕式
15:00 飯沼貞雄顕彰碑復刻版見学など、飯盛山観光、
     白虎隊記念館見学
17:00 会津若松新市長表敬訪問
晩は懇親会

当日の最大の目的である白虎隊自刃の地説明版の除幕式では、関係者が集まり始めたころは前日の台風の影響からか不安定な空で小雨がぱらついていたが、除幕式開始の時点ではありがたいことに晴れあがってきた。
白虎隊の会事務局長飯沼一元氏、会津支部長真部正美氏、室井照平市長、目黒章三郎市議会議長等が除幕を行った。
自刃した白虎隊士のなかで蘇生し唯一生き残った飯沼貞吉の孫・飯沼一元氏が、「白虎隊士が残した『義』を後世に伝えていきたい」、真部正美氏が「史実をしっかり伝えていこう」と挨拶した。
室井照平市長が祝辞を贈ったあと、一同鶴ヶ城に向い、会津藩士の子孫でサクソホン奏者の木村義満氏の「荒城の月」の奉納演奏で締めくくり、式典は成功裡に終わった。
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白虎隊の自刃については、
年端もいかない少年達が城が燃えているのを見て落胆し自刃したという「落城誤認説」が、これまで広められてきた。
碑にも刻まれ、歌にもなり、剣舞にも表現されている。
今でも、多くの観光客に対し飯盛山のガイドはこのお涙ちょうだい式の説明をしている。
したがってこの説は日本全国に広まっている。

実際は、日新館で教育を受けた当時の少年は十分に大人の気概を持った武士であり、城は蒲生氏郷が築いた堅固な城のため落城していないことを十分認識した上で、帰城して合流するか、滝沢街道を進軍してくる西軍を攻撃するか激論を戦わしていた。
しかし帰城にせよ攻撃にせよ、味方は10数名と少数であり、囚われの身になり恥辱を受けては主君・先祖に申し訳が立たないとして全員が合意し、武士の本分を明らかにするため粛々と自刃したのが真相である。

お涙ちょうだい式の落城誤認説は、日新館で立派な教育を受けた上級武士である白虎隊士に対し、まことに礼を失しているといわねばならない。むしろ侮辱しているといっても間違いではない。
説明版の設置は、これまで自刃の地にきちんとした説明版がなく、各自勝手に解釈してガイドしているため、正確な説明版が必要との考えから、関係各所への十分な説明と時間をかけ了解を得たうえで、白虎隊の会として設置に至った経緯がある。

説明版を読んで、「あら、お城が燃えて自刃したのじゃないのね」と、さっそく感想を述べた観光客がいたが、この反応こそ、正確さを期すために白虎隊自刃のこの地にきちんとした説明版を設置した意味があったことになる。


除幕式後は、会津についての知識ではピカイチの佐藤一夫さんに、飯盛山全体を案内いただいた。
説明いただいた明治時代の飯盛山
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佐藤一夫さんの尽力で飯沼貞雄(貞吉を改名)の顕彰碑も読めるようになり案内板も完成した。
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17時に、白虎隊の会として、市役所に室井新市長を表敬訪問し寄付金を贈呈した。
今回の寄付金には、青少年の育成のために使っていただきたいとの、条件を付けさせていただいた。
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表敬訪問した白虎隊の会の面々
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