赤プリと宮さん

本日、東日本大震災で被災し避難してきた方々の受け入れが、3月末に閉館した旧グランドプリンス
ホテル赤坂で始まった。
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入居対象は、都営住宅入居の抽選に漏れた福島第1原発30キロ圏外の住民や、武道館など都内の3施設に避難している方々。
東京都は、同ホテルの提供を受け、6月末まで715室に最大1600人を受け入れる意向だったが、仕事や学校の関係で収容人数の3割に当たる約140世帯、約360人にとどまったという。

このホテルは、前身が赤坂プリンスホテルで、新館(1983年開業)、別館(旧新館、1960年開業)、旧館(1955年開業)等から構成されているが、この場所は元は李王家邸であり、その前の明治時代は北白川宮邸があった場所として知られる。
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明治45年5月に北白川宮成久王の代に、同宮邸は芝区高輪南町に移転し、紀尾井町旧邸は宮内省に買い上げられ、大正13年6月に李王家邸として下賜された。

北白川宮能久親王は、ドイツ留学中の明治9年5月9日に赤坂門内紀尾井町の地(元の紀州藩邸の址)を賜わった。面積8,557坪余(内3,000坪は所謂皇族賜邸地)で、後に明治14年6月11日に紀尾井町3番地1,109坪余りを購入し加えている。

その間、この場所に隣接している紀尾井坂で、明治11年5月14日に大久保利通暗殺事件が発生する。

北白川宮邸は、能久親王の殿邸として明治14年8月に着工した。洋館と日本館が造られるが、洋館は鹿鳴館や岩崎邸を設計したジョサイア・コンドルの手になり、明治17年12月に竣工する。

その間15年7月26日に、第宅工事のため、上野戦争時に寛永寺貫主・日光輪王寺門跡であった能久親王は、東叡山春性院に移り住む。11月19日には紀尾井町の第宅が落成し東叡山より還入った。

明治16年に大久保利通が暗殺されて5年が経過し、記念碑と建設場所の話が持ち上がると、7月6日に紀尾井町の地2,000坪を西村捨三に与え、大久保利通記念碑を建設する処となした。

その後、洋館が竣工し、明治17年12月27日に宮は洋館へと転居する。
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北白川宮邸を研究した小野木重勝氏は、
皇族殿邸においては、その機能を①表公室関係②奥私室関係③内廷事務関係④内廷職員関係の四つに大別できるが、北白川宮邸では、①と②を併合して御殿(洋館)、③と④を併合して属舎(日本館)とした。この考え方は、明治大正期に建築された洋式皇族殿邸に大きな影響を与えたと見ることができる。また、特に洋館は他にない豪壮さを誇り、当時の上流階層の邸宅に影響を与えた.。
と卓見している。

このこともあって北白川宮邸に、明治18年10月9日に明治天皇が行幸し、翌10日に皇太后宮(孝明天皇皇后)、皇后宮の行啓につながったのではないかと思う。

宮邸建設に当たっては、北白川宮御付であった三吉慎蔵は、予算については宮内省、工事については工部省と協議を進めたことが資料などから確認することができる。


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