京都山科で輪王寺宮墓地を訪ねて

昨日、会社のOB達と桜見を兼ね京都散策に出かけた。
どこを廻るのか、きちんと把握しないまま集合地の山科駅に赴いたが、最初に訪ねたのが、代々の輪王寺宮のお墓のある毘沙門堂だった。

実はこの名前は明確に頭の中にあり何時かお参りしたいと思っていたのだが、うかつなことに詳細な場所を昨日まで知らなかった。
偶然の収穫があると、幸せになった気分がする。

今回巡った順序とは違うが、入口から墓地までを記録しておく。
毘沙門堂の入り口付近
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勅使門への道
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勅使門
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実際にはできないが勅使門を潜って、左に曲がり宸殿玄関の前を通りすぎる
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右方向の墓地の中に入ると左側に参道階段がある
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輪王寺墓地の入り口、残念ながら入ることはできない
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公寛法親王(東山天皇皇子)と公弁法親王(後西天皇皇子)の墓碑
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この墓地には、11人の輪王寺門跡と早世した2人の王子が眠っている
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三吉慎蔵は、
維新後、長府毛利家に仕えていたが、西南戦争の終結直前の明治10年9月19日に突然、宮内省よりの出頭要請で呼び出され、宮内省御用掛を仰せつけられた。
この時併せて北白川宮能久親王の御付きとなる。

能久親王は、明治3年12月からドイツへ留学していたが、その留学の間の明治5年3月に、弟の北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を継いでいた。
慎蔵が御付きになった時、留学中にドイツ貴族の未亡人と婚約した能久親王は婚約に反対する明治政府によって7月に帰国させられて、京都で謹慎している最中だった。

能久親王は、
伏見宮邦家親王の第9王子に生まれ、安政5年(1858)に、兄の朝彦親王と同じように仁孝天皇の猶子となり、親王を宣下され諱の「能久」を賜る。
安政6年に、輪王寺宮慈性入道親王の付弟となり、青蓮院宮尊融入道親王となっていた兄朝彦親王を戒師として得度し、「公現」の法諱を称した。

慶応3年(1867)に江戸上野の寛永寺に入り、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承する。
慶応4年(1868)、江戸城開城の後、寛永寺に立て籠もった彰義隊に擁立され上野戦争を戦うが、敗北して逃れ仙台藩に身を寄せる。ここでも奥羽列藩同盟の盟主に擁立されてしまう。この時、東武天皇に推戴されたとの説もある。

明治元年(1868)9月、仙台藩は新政府軍に降伏し公現入道親王は京都で蟄居を命ぜられるが、1年後に蟄居を解かれ、翌明治3年には明治天皇の命により還俗し伏見宮家に復帰した。

明治10年(1877)、ドイツ留学から帰国後は、順調に軍人としての道を歩き、最後は日清戦争によって割譲された台湾征討師団長として出征し当地で薨去、台湾平定の英雄とされた。

兄の朝彦親王と同じ様に、幕末明治期に数奇な運命を辿った親王だった。
能久親王の足跡については、全般的には、森鴎外の「能久親王事蹟」が詳しい。
個別には、その時々の別当、家令、御付きの日記に依るべきなのだろう。

小生にとっては、能久親王を盟主に祭り上げた彰義隊に父子で参加した幕臣の高祖父がいる一方で、北白川宮を継承した同じ能久親王に13年間、御付き・家令として仕えた長州方の先祖がいるのは、不思議な歴史の綾・巡り合わせと感じる。
彰義隊、輪王寺宮への関心と同じ様に、何故、慎蔵が御付きに選ばれたのか、これは今後の小生の研究課題にしたいと思っている。


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