東京雛めぐり

文化学園服飾博物館と三井記念美術館でお雛様を拝見してきた。
国立博物館でも特別陳列「おひなさまと人形」展で江戸時代の雛人形と雛道具など54点を展示していたが、ここは時間がなく諦めた。

文化学園服飾博物館ではパネル展示も含め9対の内裏雛の展示があったが、全て京風の配置。
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毛利家の雛人形が大村家に伝わった経緯の説明は以下の通り。
「長門萩藩主・毛利家より大村家に伝えられた雛飾り。大村家とは幕末、維新の兵法家であった大村益次郎(1825-69)に連なる家である。益次郎の没後、2代を経て旧藩主毛利家から徳敏(1876-1923)を跡継ぎとして迎えたが、この際に毛利家の雛飾りが大村家に伝えられたという。」
益次郎が実際に雛人形を拝領したわけではない。

大村家の展示ブースでは、33体の雛人形と40種余りの雛道具がグループのまとまりごとに個々に置かれている。道具類は小さいが細部まで非常に精巧な作りである。またこれらの人形と道具を配置したひな壇の写真とともに、雛人形と道具を配置する位置を示した古図面も一緒に展示されていた。

同時展示に以下のものがある。
孝明天皇所用の煙草盆(右)。
幸菱が透かし彫りで表されている。火入と灰吹には十六菊紋が見られる。
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また、和宮所用の角盥・半挿(左)、書棚(右)も展示してあった。
角盥・半挿には、三葉菊紋が表されている
棚には、葦、波、鶴の文様を表している。戸袋の引き手には皇室の十六菊紋が見られる。
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長州と孝明天皇との係わりには因縁深いものがある。
文久3年8月18日(1863年9月30日)の政変で京を追われて以後、元治元年(1864)、長州藩では孝明天皇を再び長州陣営のものとするため、京都に乗り込もうとする積極策が論じられた。積極的に上洛を説いたのが来島又兵衛、久坂玄瑞で、反対した慎重派が桂小五郎と高杉晋作。このとき、大村益次郎はまだ村田蔵六と名乗り、国許にいて鉄砲取調方にすぎず重く用いられていなかった。
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7月19日(1864年8月20日)に京都蛤御門付近で長州藩兵が会津・桑名藩兵と激突し、長州勢は筑前藩が守る中立売門を突破して一時禁裏(京都御所内)に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が駆けつけ形勢が逆転して敗退した。長州勢は壊滅し、禁裏内で来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは戦死した。京都守護職であった会津藩主松平容保は、これにより長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えることになる。 禁門の変に於いて長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、その後第一次長州征伐を行う。
長州側は、この惨敗から「討薩賊会奸」などと称して後々まで恨みを抱き続けた。

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