宝鏡寺のお雛様

宝鏡寺でお雛様を拝見してきた。
「百々御所(どどごしょ)」とも呼ばれ、室町時代創建の歴代皇女が住持となった門跡尼寺で、皇室ゆかりのひな人形や御所人形を数多く所蔵し、人形の寺として親しまれている。中には等身大のお雛様や200年以上前のお雛様なども飾られている。
江戸時代から皇室や公家出身の女性が幼くして入寺し、心のよりどころとして入寺する際に持ち込んだり、両親から季節やお見舞いとして人形が贈られた。当時の最高の技術を結晶した最上級品で、貴重な人形が多い。

今回の展示の目玉は光格天皇より贈られたお雛様(有職雛)で、このお雛様は全国的にも大変珍しいお雛様とのこと
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説明文には、次のように書かれている。
「有職雛(直衣雛) 天保七年(1863)
宝鏡寺門跡 三麼地院宮(さんまいじいんのみや) 霊厳理欽(れいごんりきん)尼 所持
光格天皇よりの拝領品。
有職雛の名称は、男雛の装束の種類によって呼び分けられる。
直衣とは上級貴族の日常着で烏帽子をかぶるのを常とする。しかし特別な勅許を得た臣下に限り冠直衣にて参内を許されている。
光格天皇内親王三麼地院宮(宝鏡寺門跡第二十四世)の御料で、天保七年(1836)に光格天皇より拝領したものである。」

この寺の奥には御堂があり、内親王思いの光格天皇の遺勅で、仁孝天皇が宮中から「勅作阿弥陀如来」を弘化四年(1847)に御堂ともに遷座された。また、この御堂の北側には、幼い頃、仁孝天皇の皇女和宮が遊んだという「鶴亀の庭」がある。小さなお庭である。

寺内には、立雛、享保雛、有職雛、古今雛などが数多く展示されていたが、撮影が許されている雛人形は入り口付近に置かれた江戸後期の有職雛だけであった。
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今回の主役の光格天皇(1771~1840、在位1779~1817)は、仁孝天皇の父親、孝明天皇の祖父だが、
理念的な天皇像を求め、幕末の天皇像を確立した人であり、朝廷と幕府の微妙な関係にも一石を投じ、幕府に対する発言権を取り戻すきっかけも作り、幕末に向け大きな役割を演じた天皇といえる。在位は39年、譲位後も院政を23年敷いた。

天明の大飢饉では京都の町民は京都所司代に対策を求めたが全く反応はなく、京都所司代を見限った町人達は、天明7年(1787)の夏、京都御所の築地塀を廻り、御所に向かって祈り門から賽銭を投げ込み始めた。やがて上方中から人が集まり、数万の民衆が御所千度参りを始めた。これは正式な政府である幕府を民衆が見限り、朝廷に救いを求めたことを意味した。

16歳の光格天皇は救済のため、関白と武家伝奏を通して善処を京都所司代に申し入れた。朝廷から幕府に政治の指示をすることは前代未聞のことで、関白と武家伝奏は「前例にない」と心配し、恐る恐る京都所司代に提案したが案外あっさり受け入れられ、千五百石のお救い米が支給された。朝廷は特に前例が物を言う世界なので,この前例が出来たことにより、朝廷が幕府に政治で口を挟む道が開けた。

文化4年(1807)に、幕府はレザノフとラックスマンの事件(通商を要求したレザノフに対して、当時の日本人も非礼と糾弾したような扱いをし、ラックスマンには通称許可をほのめかしたくせに全面的拒否解答。これに対してロシア艦隊が樺太・択捉・利尻の日本側施設や船を攻撃)の報告を朝廷に行った。今にもロシアが日本に攻めてくるとの流言蜚語が飛び交っていてそれを否定するのが理由。これを前例にして、朝廷は対外情勢の報告を幕府に求めるようになり、やがて外交に口を出し始める。

1817年光格天皇は譲位するが、このとき天皇号が第62代村上天皇(摂関時代の天皇)以来900年ぶりに復活した。この間冷泉~後桃園は「院号」が与えられていた。しかし院号は、金を出せば庶民でも戒名としてもらえるもので、ありがたみに欠けていた。
そして死後には、醍醐とか白河といった地名を使った追号ではなく諡号が与えられた。これも第58代光孝天皇以来900年ぶりのことで、天皇号も諡号の復活も幕府との交渉の結果実現した。
光格天皇以降、天皇には、天皇号と諡号が贈られている。

また、天皇と公家の教育機関として学習所を計画し、死後に実現された。学習所では「六国史」などがゼミ形式で講義され、公家の政治的自覚を高めた。

また、天皇の実権の確立について、水戸学の栗山潜鋒は「保建大記」において、「天皇は、保元・平治の乱のときに悪逆非道の行いをしたので、徳を失って政権を失ったのだ」と主張した。また潜鋒の同僚三宅観欄は、後醍醐天皇の失政を遠慮仮借なく批判している。しかし、彼らの主張が持つもう一つの意味は、「もし天皇が前非を心を改めて徳を持った君主に戻ったならば、政権は天皇に戻るはずである」となる。光格天皇が潜鋒や観欄の著作を読んでいたかどうかは不明だが、もし読んでいたとしたら自ら理想的な君主たることで朝廷に実権を戻そうと考えていたのかもしれない。潜鋒は元々皇族に見せるために「保建大記」を記したから、その可能性は高い。

このように、光格天皇は近世の天皇像を一変させた。光格天皇によって、天皇は理論上だけではなく、実際に君主としての容貌を帯び始める。

参考:http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/abesonnou11.htm「尊王思想の研究11―光格天皇」

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