加賀藩前田家のお雛様

加賀藩前田家には歴代藩主の雛人形・雛道具が伝わる。その膨大な数の雛人形・雛道具は、金沢城・二の丸御殿に二棟にもわたる「御雛土蔵」という蔵が造られ、そこに納めていたといわれている。
緑青 vol.18 「お雛あそび」より
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この次郎左衛門雛一対は、1808年に加賀藩主十二代斎廣公が隆子君の初節句に贈ったもので、その後の由来も記した貴重な内裏雛である。

加賀藩は、第一次長州征伐、戊辰戦争に参加して明治維新を迎えるが、幕末・維新の際にも主導権を握れず、あまり活躍が見られなかった。
このことが後に、明治11年の紀尾井坂の変の遠因になり、明治の元勲・大久保利通が明治11年(1878)5月14日)に東京の紀尾井町清水坂にて士族6名によって暗殺される。
 贈右大臣大久保公哀悼碑 (東京千代田区・紀尾井坂)
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暗殺犯は石川県人(旧加賀藩士)島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名(脇田は上京にあたり罪が家に及ぶのを恐れて士族を辞めて平民になっている)。
その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎。
島田一郎は、嘉永元年(1848)に生まれ、明治11年(1878)7月27日に斬首される。年31。

島田は加賀藩校壮猶館に学び、加賀藩の足軽として第一次長州征伐、慶応4年戊辰戦争では北越戦争で負傷し少尉となり4年藩兵解散時に中尉で終わった後、上京し斎藤正信の私塾に入ったが志を捨てて帰国した。
征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走する。 
加賀藩が維新の主導権を握れなかったことを痛憤し、一大壮挙を策謀し、佐賀の乱・萩の乱・西南戦争に呼応しようとしたが悉く失敗した。次々に氏族の反乱をつぶす参議大久保利通の暗殺を計画、明治11年長連豪ら不平士族とともに上京し,5月14日元老院会議に出席する大久保を紀尾井坂で襲撃、刺殺した。即日一同自首したが、斬刑に処せられた。

この時の斬奸状には薩長藩閥反対、西郷ら憂国の士を排斥した非法を訴えているが、世評は「加賀藩士族の暴挙恥ずべし」と冷たかった。

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この記事へのコメント

トト
2015年08月10日 10:30
ブログを拝見しましたが、私としては、島田一郎・長連豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族に共感&同情しています。なぜなら、一郎らは、時代から捨てられてしまった被害者だったような気がするからです。一郎らが、大久保利通暗殺事件=紀尾井坂の変を引き起こした背景には、利通だけでなく、川路利良・岩倉具視らに対して、どうしても我慢できないほどの、怒りと憎しみと政治への不満を募らせた上に、一郎が、西郷隆盛に対して、異常すぎるほどの尊敬をしていたからだと認識しています。もちろん、暗殺すること自体はテロ行為ですから、絶対且つ決して許されないことですが、一郎らを、単なる加害者&殺人犯として扱うのはいかがなものかと思っています。あと、一郎らとしては、自分たちこそが、真の正義だと思って牙を剥いたわけですから、利通の遺族らからの批判や非難を受ける覚悟があったことは、否定できないのではないかと思います。

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