東京雛めぐり2(三井記念美術館)

今年で4回目になる日本橋にひと足早い春の訪れを告げる行事、三井記念美術館の「三井家のおひなさま」展。この美術館が居を構える日本橋室町付近には、江戸時代、ひな人形の市が立つ十軒店と呼ばれる一角があり、桃の節句が近づくと、ひな人形を買い求める人々で大変なにぎわいをみせたといわれている。

三井記念美術館では、所蔵する北三井家十代高棟夫人の苞子(ともこ・ 1869-1946)、十一代高公夫人の鋹子(としこ・1901-1976)旧蔵のひな人 形・ひな道具をはじめ、高公の一人娘浅野久子氏旧蔵の豪華なひな壇飾り を展示している。

三井家伝来の雛人形は近代のものが中心になるため、現存する北三井家の雛飾りの写真(大正時代頃撮影)にもとづき、展示している雛人形はすべて、男雛を向かって左、女雛を右に配置している。すべて京都とは逆の関東風。
従って写真から、関東風の配置は昭和ではなく既に大正から行われていたことがわかる。
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苞子夫人は、旧加賀藩支藩、富山藩主・伯爵前田利聲の長女として、明治2年11月11日に東京で生まれる。明治25年(1892)12月、北三井家十代高棟(1857~1948)と結婚した。
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苞子夫人の雛人形・雛道具には段飾り用に大揃えであつらえたものはないが、江戸時代のひな人形や実家の富山前田家より持参したひな道具、三井家嫁入り後に新調した内裏雛など、様々な時代や様式の人形、道具が含まれている。
ヨドコウ博物館所蔵の内裏雛と同じ作者、三世大木平蔵の明治28年作品
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有職雛 江戸時代
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享保雛 江戸時代
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以上、写真はいずれも三井記念美術館HP、図録「三井家のおひなさま」より転載。

富山藩の幕末での活動はあまり眼にし耳にしない。もともと加賀藩102万石の支藩で10万石、加賀本藩の意向に反する動きはできにくかったうえ、両藩とも幕末での活動はスタートが遅く、文久3年の将軍家茂上京の頃に始まる。

加賀藩は、朝廷よりの内旨に応じ世子前田慶寧とその一行が元治元年5月10日(1864年6月13日)に入京した。7月19日午前6時頃、京都を包囲した長州軍は御所守衛の諸藩兵に発砲を開始、禁門の変が勃発した。しかし加賀藩に動きはなく、世子一行は当日夕刻、突然に退京令を発して近江に退く。(一説に近江高島郡に飛地を持っていたため、幕府の九重彦根城動座計画を阻むための行動との説あり)。
これに対し藩内の佐幕派が勤皇派を弾圧し、松本大弐康正は自刃、青木新三郎・千秋順之助他2名を切腹に処したため、以後は時流に取り残される。

富山藩の藩士の一部も、激動する幕末政局の中で、藩政に積極的に発言を試み、文久2年(1862)には入江民部・林太仲・島田勝摩らは家老山田嘉膳の政治を批判する建白書を本藩に提出したが元治元年(1964)には島田が山田殺害へと暴走してしまった。富山藩も結局、本藩管理の下で、加賀藩同様に幕末政局に主体性を発揮できずに明治維新を迎え、廃藩置県によって消滅した。

但し、禁門の変後の7月27日、本田政均が執政に復職し、加賀藩・富山藩は大藩としての面目を保つための領内割拠(千秋順之助いうところの独立独行。つまり武装中立)を目指したので、同じ武装中立を標榜した越後長岡藩が戦火で灰燼に帰したことを思えば、巧妙にかつ強かに幕末を迎えたともいえる。

「維新激動の300藩」、北日本新聞社「富山大百科事典」より


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