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zoom RSS 龍馬が隠れた材木納屋

<<   作成日時 : 2017/09/02 17:52   >>

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龍馬と三吉慎蔵が幕府の捕吏と寺田屋で戦い隙を見て逃走した途次、隠れた材木納屋がある。
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         ただし鳥羽伏見の戦いで焼失しているので、写真の材木納屋は当時のものではない。

この材木小屋について、伏見奉行所の報告には、
「村上町財木渡世 近江屋三郎兵衛財木納屋へ 龍馬手疵を受候侭立入」とある。
材木商・近江屋三郎兵衛のものと確認されているこの納屋は、今現在の村上町370番地の北川本家ビン工場を含む場所にあった。

で、この場所は、幕末頃の絵図では大名屋敷の敷地となっている。
大坂の蔵屋敷でもそうだが、藩は敷地の一角を出入りの商人に貸し与えることがある。
この材木納屋もおそらく藩から貸し与えられた土地で、貯木場として使われていたのであろう。
ではこの敷地の大名は何家なのか、これがよくわからない。

『伏見町誌』の「維新前管轄図」では、この納屋のあった場所辺りを、地図上では因州鳥取屋敷と明示している。
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小さな地図では細かな地所の名称は注記していないこともあるので、この敷地がすべて鳥取藩邸なのかは分からない。ただ今現在、材木納屋があった辺りの大手橋筋に面した北川本家の酒販売所には、鳥取歴史博物館から提供された鳥取藩伏見屋敷の絵図のコピーを掲示し、もと鳥取藩の敷地跡としている。
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絵図では、北は紀州藩邸、東は村上町通り、西は川筋(濠川)に接し、南は町屋と書かれている。

しかし、江戸末期の地図、慶応4年の『京町絵図細見大成』では、「藝州」とある。しかも、三筋北の肥後町には「因州」とあり鳥取藩の屋敷は別の場所を示している。
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以上のように、材木納屋の在った場所を含む土地の大名家に複数説があるので、どれが正しいのか調べてみたい。

鳥取県立博物館に確認すると、京都・伏見の藩政期の記録は殆どないという。ただ、幕末期の鳥取藩の場所は現在の北側本家ビン工場の少し南側と考えていたが、当館としても関心があるので、とりあえず、藩と商人との取引の記録の有無を調べたいとのお話。
広島市中央図書館で確認すると、京都での藩政期の記録は原爆で焼失してしまったという。ただ、レファレンスを受けたので時間はかかるが確認はしたいとおっしゃる。

関が原以後から幕末以前までは藩邸の地所替えはあまりないとは思うのだが、薩摩藩邸を例にするまでもなく、政局が京都に移る幕末は藩邸の移動が多そうだ。

ただ芸州広島藩については、広島県史の年表で確認すると、伏見藩邸の記述は2か所あり、江戸中期に屋敷替えをしていると思われる。

@ 1633 寛永10 癸酉
  9-27 広島藩,伏見阿波橋内新町に伏見藩邸を設ける〔玄徳公済美録4〕。

A 1716 享保1(6.22) 丙申A
  7-13 広島藩,伏見京橋町屋敷を伏見藩邸にする〔事蹟緒鑑37〕。

享保元年7月13日に藩邸を伏見京橋町に構えているが、阿波橋内新町から屋敷替えし京橋に移転したと読むと、それ以後の年表には伏見藩邸の移転記述がないので、藩邸は江戸時代に一回、屋敷替えしたことになる。

@の伏見阿波橋内新町は、村上町通と濠川との間なので、慶応4年の『京町絵図細見大成』に描かれた「芸州」になるのだろう。そしてAの伏見京橋町は、『伏見町誌』に記述の「安芸屋敷」と思われる。
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この場合は、1716年以後に作成された『京町絵図細見大成』が代々慶応4年まで何種類あるか知らないが、「芸州」は伏見阿波橋内新町にあると記され、ずーと訂正されずに幕末まで至ることになってしまうのだが・・・・・。
ただ、正式の藩邸は京橋にあり、「芸州」屋敷はそのまま阿波橋にも残っているのであれば、屋敷としての注記は正しいとも思えるのだけれども・・・・。
この場合、鳥取藩伏見屋敷の絵図では、、阿波橋内新町には「町屋」と書かれている。

京都府立総合資料館が所蔵している天保年間に描かれた「城州伏見図」がある。ここには、伏見京橋町屋敷が描かれ、
鳥取藩伏見屋敷絵図と同じく、阿波橋内新町の芸州屋敷の在った場所は「南組町屋」とある。
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ところで、幕末を遡ると、いろいろな時代に描かれた古地図がある。
なかでも、大阪府立図書館蔵の『伏見往古図』は参考になる。慶長年間の古地図で、その後正徳4年(1714)に校正した地図だ。
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ここでは、下大手町通り(地図は上が東、下大手通りは真ん中縦の筋)の北側と南側に紀州藩邸(紀伊中納言と紀州御屋敷)があり、さらに南側に因州藩邸(因幡少将)とある (「紀州御屋敷」と「因幡少将」を分けている線は絵図の折り目)。
正徳4年(1714)の』伏見往古図』と、昭和4年作成の『伏見町誌』には、村上町通りと濠川の間に「因州」とある。

「因幡少将」の南側に注記していない空白地があるが、阿波橋に近いのでこれが「芸州」のようだ。

慶応4年の『京町絵図細見大成』では、「因州」屋敷は肥後町にあるとするが、この場合も、「芸州」の北側の注記のない空白地は「因州」藩邸と注記されていないだけなのだろうか?・・・・・・・。



さて、ここからが本題

重要なのは、『京町絵図細見大成』に描かれている 「藝州」 の北側の注記のない空白の敷地。
「因州」は肥後町に描かれているので、この空白地はこれは何だろうか。
実は、僕はこれが多くを物語っているような気がしている。

この空白地は、おそらく2つの部分から成り立っている。

『伏見往古図』では、下大手町通りの南側にも紀州藩の屋敷の一部があり、この場所は村上町でもある。
幕末の時も、敷地はこの図と変わらなかったのではないかと考えている。
とすると、材木小屋のあった辺りは、紀州藩邸の在った場所となる。

あらためて、鳥取県立博物館の「鳥取藩屋敷絵図」を見ると、北側は道を挟まず「紀州藩御屋敷」と接し、東の村上町通りは北に延び「紀州藩御屋敷」の横を通っている。
従って、「鳥取藩屋敷絵図」の北側の「紀州藩御屋敷」は、大阪府立図書館蔵の『伏見往古図』に描かれた下大手町の南側の「紀州御屋敷」と同じと分る。

結局、下大手町通から南側は、

  紀州藩
  因州鳥取藩 
  芸州広島藩 (但し、享保元年に藩邸は京橋に移転)

と並んでいたことになる。

従って、材木納屋があったのは紀州藩邸敷地内と結論してもよさそうだ。

初代伏見町長になった江崎権兵衛は、先祖は江州坂本の人で「近江屋」を屋号としていた。父の近江屋権兵衛は阿波橋東詰から西浜(字過書)に移転し、紀州ほか数藩の御用商人であったという。
上賀茂下鴨神社・石清水八幡宮・春日神社・大宮御所などを造営し使用人も多かった「近江屋」は、身内の「三郎兵衛」に「近江屋三郎兵衛」として暖簾分けしたのではないだろうか?
「近江屋三郎兵衛」も紀州藩の御用商人として、紀州藩からこの屋敷を借り受け、材木貯蓄場としていたと考えることは不思議ではない。
なお、この場所は、後年の明治26年に、江崎三郎兵衛から江崎権兵衛に譲渡されている。

付け加えると、今の大手町筋は、大手橋が架けかえられたときに南側に倍ほど道幅が拡張されている。元紀州藩邸の北側が削られ一部が道路になっている。従って、材木納屋のあった辺りもその北側が道路になっていると考えた方がいいのだろう。

まだまだ史料により検証が必要とは思うが、
ここでは一旦、龍馬か隠れた材木納屋は紀州藩の敷地内にあったと結論しおく。


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