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zoom RSS 横浜・神奈川宿 幕末史跡巡り

<<   作成日時 : 2017/04/26 20:31   >>

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神奈川宿の幕末史跡めぐりをしてきた。
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昨年末に京都から江戸まで旧東海道を歩いた時は、ウォーキングが目的で、街道沿いの史跡めぐりができなかった。
今年はオランダで建造された開陽丸が榎本武揚達によって横浜に回航されて150周年になり、それを記念して開陽丸子孫の会が横浜で開催されたことでもあり、神奈川宿の幕末史跡めぐりをしてきた。

コースは、神奈川宿の江戸見付から京見附まで。

神奈川通東公園(オランダ領事館、江戸見附)
京浜急行・神奈川新駅の近くで、長延寺があった場所で、公園のやや東が旧東海道の江戸からの入り口になる見附の辺り。安政6年(1859)開港当時は、オランダ領事館が置かれた。
長延寺は昭和40年(1965)に横浜市緑区に移転し現在は神奈川通東公園になっている。
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良泉寺(領事館にあてがわれるのを断った寺)
開港当時、旧東海道沿いの神奈川宿の寺には幕府の命によって諸外国の公館が設置されていくが、それを潔しとしなかった住職は、本堂の屋根を剥がし修理中との口実で、幕府の命を断る。
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神奈川地区センター(高札場、神奈川宿のジオラマなど)
現在の神奈川警察署西側辺り(神奈川本陣の西側、滝ノ橋のたもと)に建っていた高札場が復元されている。
館内には神奈川宿のジオラマも置いている。
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成仏寺(ヘボンなどアメリカ宣教師の宿舎)
鎌倉時代後期の創建の浄土宗の寺。開港当時はアメリカ人宣教師の宿舎にあてがわれた。
ヘボン式ローマ字の創始者であり、日本最初の和英辞典「和英語林集成」を編纂したジェームス・カーティス・ヘボンや、聖書や讃美歌の和訳をしたサミュエル・ブラウンなどが滞在した。
友人あてのヘボンの手紙によれば、ブラウンは庫裏に、ヘボンは本堂に住んだらしい。
アーネスト・サトウは、文久2年(1862)に訪れ、ブラウンから日本語を学んでいる。
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慶運寺(フランス領事館)
開港当時、フランス領事館が設置された。
浦島太郎の伝説が伝わる浦島寺(帰国山浦島院観福壽寺)が慶應年間に大火で焼失したため、明治5年(1872)になってから合寺した。浦島伝説に関わる記念物が伝わるため、その伝説も引き継ぎ浦島寺とも呼ばれる。
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浄瀧寺(イギリス領事館)
初代駐日総領事のラザフォード・オールコックは、開港地が神奈川宿ではなく横浜村に代わったことに抗議したが、領事館の設置にあたっては条約遵守を主張し、神奈川の寺が領事館にあてられたという。
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宗興寺(ヘボンの診療所)
横浜開港に伴い来日したデュアン・シモンズが滞在した。シモンズは十全病院の医院長を務めるなど横浜での医療・医学教育に貢献する。
文久3年(1861)にはヘボンが診療所を置き、幕府の命で閉鎖するまで成仏寺から通い無料で診療にあたった。
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瀧の川を挟んで江戸側(川の右)に神奈川(石井)本陣、その反対側(川の左側)に青木(鈴木)本陣があった。
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洲崎大神(横浜開港場と神奈川宿との渡し場)
神社の前の旧東海道を海側へ、第一京浜に出る辺りが船着き場。横浜が開港されると、開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、 付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる 陣屋も造られた。
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普門寺(イギリス士官の宿舎)
寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝わる。
本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられた。
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甚行寺(フランス公使館)
フランス公使はもと、品川宿の済海寺に置かれていたが、万延2年(1861)に神奈川宿甚行寺に移転した。更に、慶応2年(1866)に横浜の弁天大社跡地に公館が建設され移転した。
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本覚寺(アメリカ領事館)
開港当時、幕府は開港場の横浜に領事館を用意したが、駐日公使のタウンゼント・ハリスは、横浜を見渡せる本覚寺を領事館に定めた。療治であったドーア埴輪の松の枝を払い落としきの上に星条旗を掲げた。この寺の本尊を板囲いで覆い、山門を白ペンキで塗り、日本人の立ち入りを禁じた。日本で最初の塗装とされ、境内に塗装業者の顕彰碑が置かれている。
山門の横には、安政5年(1857)日米修好通商条約締結に際し、ハリス殿交渉に当たった全権委員・岩瀬肥後守忠震の顕彰碑が建っている。
幕府は神奈川宿の対岸の横浜村に開港場を設けることとしたが、忠震は条約で決められた文言通り神奈川開港を主張していた。
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神奈川台の関門
開港後、外国人がしばしば殺傷され捕縛されないことに抗議したオールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。そこで幕府は、横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られ、その一つが、西側の神奈川台関門。
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ついでに、旧東海道からは離れるが、
掃部山公園、神奈川奉行所、吉田橋、岩亀楼を周り、
先日神戸にてジャ−ディン・マセソン商会の門を見学したので、英一番館の跡地を見学した。


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