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zoom RSS 白虎隊剣舞の詩歌

<<   作成日時 : 2017/03/24 14:26   >>

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白虎隊墓前祭では、春と秋の年2回、会津高等学校の剣舞委員会により、白虎隊剣舞の奉納が行われる。
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剣舞は、 明治17年に日新館の漢学教師の佐原盛純により作詞された漢詩「白虎隊」の詩吟に合わせて行われる。

飯盛山には、明治41年に亡くなった佐原盛純の顕彰碑が建っている。題額は田邊太一で「佐原先生碑」とある。佐原と田邊とは、文久3年(1863)に派遣された遣欧使節団で同行し、相知ることとなり、田邊は佐原のため顕彰碑の題額に筆を執った。

剣舞で吟じられる「少年團結白虎隊」で始まる漢詩はあまりにも有名だが、
大正3年に建立されたこの顕彰碑にも、佐原の「白虎隊」の詩歌が刻まれている。ただ、刻まれた白虎隊の詩歌は字句に違いが散見され、語数も28文字も多い。

詩歌の、僕には重要な後半の部分については、
剣舞での「白虎隊」には、
「南望鶴城烟焰颺 痛哭呑涙且彷徨 社稷亡矣可以己 十有九士屠腹死」、
顕彰碑では、
「南瞰鶴城烟焰颺 痛哭涙飲且彷徨 宗社亡矣吾事畢 君恩只応一死償 十有九人屠腹死」
と刻まれている。
ほぼ同じ内容で、意味は、
南に鶴ヶ城を望めば砲煙が上がっている。深く歎き涙を堪えてしばし彷徨った。我が藩は亡び、我が為すべきことは終わった。(君恩に報いるため一死をもって償い)十九人は腹を切って死んだ。  

ただこの部分の詩歌は、蘇生し唯一生き残った飯沼貞吉が後年記述した「白虎隊顛末略記」とは異なる。

「白虎隊顛末略記」では、飯盛山に遁れてきた白虎隊士の自刃に至る理由を明かしている。
白虎隊士は、眼下に行進する滝沢街道の敵軍を衝くか、蒲生氏郷が築いた城は落ちていないので潜かに道を南にとって入城すべきか、2論を激論するが決着がつかない。
そこで隊長代理の篠田儀三郎が結論を出す。
いずれの方法も隊士は十数人の少数故、誤って敵に虜にされる惧れがある。縄目の恥辱は殿に対し、また先祖に対しても申訳がたたない。潔くここに自刃し、武士の本分を明らかにしようと。
同意した一同は城に向かい遙拝決別し、従容として自刃した。

従って、貞吉に従うと、漢詩「白虎隊」のこの部分を変え、剣舞も変える必要がでてくる。
明治17年からずーと続いてきた伝統の剣舞なので、変更するのには大変な努力が必要なのだけれど・・・・


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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です。

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