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zoom RSS 旧東海道を歩く 16日目 12/8

<<   作成日時 : 2017/01/18 11:09   >>

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箱根宿から、箱根旧街道(東坂)を下り、小田原宿まで歩く
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前夜から気温が低く、下りの坂道の丸い石畳は朝霜が溶けて滑るおそれもあるため、注意深く下る必要がある。

箱根路は、年代によって道が移り変わっている
@碓氷道(箱根で最も古い峠路)--> A足柄道(奈良、平安時代に利用された路)--> B湯坂道(鎌倉、室町時代に開かれた路)--> C旧東海道(江戸時代に開かれた路)--> D国道1号線(現在の東海道)
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0900箱根宿を出立する
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0915本日は天気が良く、芦ノ湖に富士山がよく映る
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0926元箱根脇の箱根旧街道の400本余りの杉並木を歩く。元和5年(1619)に植えられたと伝わる。
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0929ケンペルとバーニーの記念碑と、バーニーが大正に建立したケンペル顕彰碑
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ケンペルは、「日本誌」の中で箱根の美しさを紹介している。
バーニーは、ケンペルの「日本誌」を引用し、箱根の自然を保護し子孫に伝えよと力説している。
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ケンペルについては、江戸参府の折、旧東海道の各宿場に滞在記録が残っている。
僕の関心事は、「日本誌」の記述のために、様々な日本の情報を提供した数え20歳の青年(長崎の内通詞小頭・今村市左衛門の倅)の存在。後に大通詞、通詞目付に出世した今村源右衛門だが、このときケンペルの江戸参府に同行していたのか否かが調査の対象。

ここから石畳みが1キロほど続く
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石畳みの説明には、「 現在残っている石畳は、文久3年(1863)2月、孝明天皇の妹・和宮内親王が14代将軍家茂のもとに降嫁されるにあたり文久2年に改修工事を完成させたものと云われている。」とある。ただ、和宮内親王は、文久元年(1861)10月20日に京都を出発し江戸に向かったが、行列は東海道ではなく中山道を通り、11月15日、一行は江戸城内の清水屋敷に入っている。年月といい、通る予定の街道といい、説明文には違和感が残る。
箱根街道の整備の時期が間違いなければ、14代将軍家茂が文久3年に上洛するに当たり事前に整備したとする方が正しいと思われる。
石畳みは、平均3.6mの道幅の中央に約1.8m幅に石が元箱根から白水坂の先まで敷き詰められている。

権現坂、しばらく登りが続く
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0934権現坂の説明板
これからの説明板や石碑もほとんどが、小田原から箱根の東坂を登る人を対象とした説明内容となる。
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0936六道地蔵道標
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0940箱根馬子唄碑
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」
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この碑を通り過ぎしばらく登ったところがピークで、あとは下りになる
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0953白水坂
城不見(しろみず)坂ともいう。秀吉の軍が北条軍のため前に進めず小田原城を見ることなく引返したのが由来ともいう
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天ヶ石坂
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1006甘酒茶屋
箱根地域に9箇所設けられていた「甘酒茶屋」のひとつ。今はここにしか残っていない。
甘酒400円、一杯いただく
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この甘酒茶屋は、忠臣蔵の神崎与五郎が馬子の丑五郎に詫証文を書く舞台となった茶店。もっとも講釈師の作り話との伝もある。現在の建物は2009年に改装されたものとのこと。

1020追込坂
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1026猿滑坂
坂は上り一町余り(109m余りとある。
『新編相模国風土記稿』に、「殊に危険、猿侯といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と、坂道の名の由来が書かれているらしい。この坂は下りでよかったのかも・・・
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1040雲助説明板
「箱根の雲助」は悪名だけ流布しているが、実は小田原の問屋場で働く技量を持った人足のことで、悪さをしたものはいないとのこと
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1044橿木坂
坂は五町ばかりあり、東海道中で一番の難所らしい。『東海道名所日記』に、「橿の木のさかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼれる」とある。その点下りは楽であった。今は長い階段になっている。
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1055西海子坂を過ぎると、畑宿の箱根街道一里塚が見えてくる。江戸まで23里。
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1108畑宿
畑宿は、箱根宿と小田原宿との間宿。
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戊辰戦争では、「脱藩藩主」林忠崇旗下の一部の請西藩兵が畑宿にも駐屯し、湯本の山崎の戦いで左腕を負傷した遊撃隊長・伊庭八郎は畑宿で治療を受けたらしい。

1113茗荷屋本陣跡
ハリスやヒュースケンなどの外交使節も感心した見事な庭園がある筈だが、拝見せず
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1128割石坂
曽我五郎が仇討に向かうときに、刀の切れ味を試し、巨石を真っ二つに切り割ったことに由来する
坂は一町(109m)ある
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1132須雲川を渡る
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1204観音坂
登リ二町許り
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1220箱根旧街道の一里塚跡を通り過ぎる。日本橋までは22里。
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1235三枚橋
ここ湯本の三枚橋から山崎までの辺りは、戊辰戦争の戦場となった。
山崎で小田原兵と戦っていた旧幕府遊撃隊長・伊庭八郎は、新政府軍が参戦し包囲されそうになったため東側の山崎から三枚橋まで撤退してきた。ここで小田原藩・高橋藤太郎に左手首を斬られたが、右手で切り倒したといわれる。

1245山崎を通過。
山崎は、箱根戊辰の役の戦場だった場所。
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「山崎ノ古戦場 明治維新ノ際官軍東上ノ途此地ニ於テ伊庭八郎等ノ殉幕浪士ト遭遇激戦ノ後是ヲ撃破セリ」
佐幕派から勤皇派に立場を変えた小田原藩軍と、旧幕府遊撃隊とが、湯本の山崎に於いて激しい戦いを行った。伊庭八郎は重傷を負い、数で圧倒する小田原藩と新政府軍とが勝ち、遊撃軍は敗走する。

1308かまぼこの鈴廣にお邪魔し、昼食の場所を借りる
鈴廣の社長は、小田原龍馬会の会長でもある。
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1355小田原宿に入る
小田原宿は、戸数1,542戸、人口5,404人(うち男2,812、女2,592)、本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒から成る
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小田原宿本町
小田原北条氏時代、この町は通小路といい江戸時代前期にこの町を基準として城下の町人町を左右に町割りしたとき本町と改められた。東の宮前まちとともに小田原宿の中心であった。
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なりわい交流館
江戸時代の旅籠で、大正時代に漁網問屋となり、今は建物を改装してお休み処として利用されている
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本日はここまで
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参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です。

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