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zoom RSS 旧東海道を歩く 4日目 11/26

<<   作成日時 : 2016/12/27 19:05   >>

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関宿を出立し、亀山宿、庄野宿、石薬師宿を通って、四日市まで31キロを歩く。
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昨日と違ってほぼ平地を歩く。単調な平地の遠距離ウォーキングは意外と難しい。

関は、伊賀と伊勢、さらには近江をつなぐ要地(伊勢別街道)として開けた。鎌倉時代から関所が設けられていたが、織田信長が関所の制を廃した。難所と言われた鈴鹿峠の下にあり、かつ交通の要衝として集落ができ、宿駅として整備された。旅籠や商店が多く、百姓家はない。関は、大名が亀山など城下町の宿泊を避けたことと、鈴鹿峠越えのための宿場であったことから町として大いに栄えた。

0840昨日のゴール地点の関地蔵院から出立する。
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この本尊の地蔵菩薩は日本で一番古いらしい。
天平13年(741)、流行していた天然痘から人々を救うため、行基が安置したと伝わる。
藤原定家など多くの人が訪ねている。
「関の地蔵さんに振袖着せて奈良の大仏婿に取る」の俗謡でも名高い。
地蔵院の額に芥舟の名があるが、木村摂津守か否かは調査中。
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高札場と伊藤本陣
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0855鳥居と一里塚跡(日本橋まで106里)
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0900小万もたれ松碑
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関は仇討で有名な小万の生まれた地でもある。
久留米藩士牧藤左衛門は同藩士に殺される。夫の仇討にため身持ちの妻が関まで来たが、旅篭山田屋で女子(小万)を出産して亡くなる。小万は山田屋で養育され、剣術を習い18歳で仇を討つ。

0919太岡寺畷
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この畷は、東海道で最も長い畷道(直線道)。鈴鹿川の左岸に沿って約2キロ続き、桜の名所でもある。

0943野村一里塚(日本橋から105里)、塚は北側だけ残り、榎ではなく、樹齢400年の椋の木。
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0954亀山宿京口門跡を通り、亀山宿に入る。
戸数567戸、人口1,549人(うち男790、女759)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒。
京口門は、西からは亀山城の城下町の入り口であり、亀山宿西端の固めでもある。
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広重の浮世絵で、大名行列の人馬が急斜面を登っている左下が京口門。旧東海道を西から東に進んでくると宿場の屋並に入る手前に坂があるが、このような急坂は実景とはいえず多分に誇張されている。
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1005亀山城
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1033亀山宿江戸口門跡
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1055亀山宿を抜け、和田一里塚(日本橋まで104里)を通る
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1202中富田一里塚(日本橋まで103里)
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1209女人堤防碑
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汲川原村は鈴鹿川と安楽川の合流部に位置し頻繁に水害に遭っていた。築堤の許可を神戸藩に願い出たが、
右岸側が神戸城下であったため左岸の汲川原側の堤の強化は許可が出なかった。男がするより罪が軽くなるだろうと女衆だけで6年間で堤防を築き上げた。女たちは処刑場へ送られたが赦免の早馬で救われたという。

1300昼食後、庄野宿に入る。戸数211戸、人口855人(うち男413、女442)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒
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広重の浮世絵は夕立の図で、急坂を喘ぎ登る駕籠かきや一気に下らんとする農民などを描いた傑作である。ただ庄野には、このような急坂は実際にはない。

庄野宿本陣跡
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庄野宿から次の石薬師宿までは27町(約3キロ)の距離しかない。宿場間の距離では東海道で2番目に短い。
ちなみに一里以下は以下の通り。
@赤坂−御油( 16町)、A大磯−平塚( 27町)、A庄野−石薬師( 27町)、C由井−蒲原( 1里)、D金谷−嶋田( 1里)、E新居−舞阪( 海上1里)

1338石薬師一里塚 (日本橋まで102里)を越え、石薬師宿に入る
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戸数241戸、人口991人(うち男472、女519)、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠15件
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石薬師宿には、この地で生まれた歌人・佐々木弘綱の記念館や顕彰碑があり、また通りの随所に作った歌の数々が掲示されている。
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小沢本陣跡
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大名の名前の書かれた江戸時代の宿帳が保存されており、浅野内匠頭の名も記されているという。

1438四日市市に入るころから、遠くに四日市の町と伊勢湾が見えて来る。
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1446難所として有名な杖衝(つえつき)坂を下る。坂の名は、日本武尊が東征からの帰途、ひどい疲労から、この坂を杖をついて歩いたことに由来する。
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1522日永追分、伊勢路と東海道との分岐点に到着。左が松阪に向かう伊勢路、右が東海道
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四日市宿は、戸数1,811戸、人口7,114人(うち男3,522、女3,592)、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠98軒からなる
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本陣には、江戸参府のケンペルやシ−ボルトも訪れ、将軍になる前の徳川慶喜や吉宗も宿泊している。
四日市は、海上で宮(熱田)へ10里の船渡も通じて、また伊勢湾の海陸交通の要所として重んじられ、明暦年間(1655頃)には100戸だったが、天明年間(1781−89)には1,300戸に達していたという。

本日は、博物館員の講演会を拝聴するため、ウォーキングはここまで。
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参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」
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