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zoom RSS 防長殉難者の墓所と法要

<<   作成日時 : 2014/11/12 18:15   >>

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10/26(日)、京都東福寺・退耕庵での明治維新防長殉難者の法要に参列してきた。
慰霊祭は、安政の大獄、池田屋騒動、禁門の変、鳥羽伏見に始まる戊辰戦争等々における萩宗藩、長府、清末、徳山、岩国の各支藩の防長殉難者を対象にしており、判明しているだけでその霊名は1,621名に上っている。
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幕末政局の主要な舞台になった関西には防長殉難者の墓・慰霊碑が多く、京都・霊山、三縁寺、上善寺、相国寺、東福寺、大阪・大江護国神社、安倍野墓地、尼崎・大物等各所にある。

京都霊山の霊明神社は、幕末時代から、戦死・変死した防長藩士の神道葬を執り行ってきた。
霊山での神道葬の始まりは、長州清末藩の国学者・船越清蔵が最初で、霊明神社神主・三世村上丹波源都平(くにひら)の著述『講説稿本』によると、「高倉二条邊ニ竹御所内ニ吉田玄蕃ト申ス人ガ有リマシテ是ガ亦至テ精義勤王之人ニテ有シガ是ガ船越先生之石碑ヲ初メテ當山ニ建テラレマシテ御霊祭リヲ致サレマシタノガ精義ノ神霊ノ祭リ初メナリ」とあり、文久2年(1862)11月18日に長藩50人程が参詣し萩藩主からも使者が派遣されて神道葬(但し実葬ではなく、遺物を納めた)を行っている。
霊山で最初に神道葬された船越清蔵守愚の石柱
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船越清蔵13回目の祭祀を明治7年(1874)8月8日の命日に行った記録
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霊明神社では、船越清蔵の神道祭のあと同年文久2年から、安政の大獄以降の「報国忠死の霊魂祭」が斎行されていく。
但し、元治元年(1864)7月の禁門の変で長州勢が京を追われてからは、霊明神社の村上神主一家は4年間離散隠伏の逃亡生活を送らざるをえなくなり、霊明神社に戻って葬祭・招魂祭を再開するのは、大政奉還と王政復古令をまたねばならなかった。

慶応4年(1868)正月3日に始まった伏見・淀・鳥羽の戦いで戦死した24名が、長州勢の本陣が置かれた東福寺の南岳に埋葬され、それぞれに木の墓標が建てられ、霊明神社神主・村上都平、村上都順が神道葬を行っている。
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次にあげるのは、霊明神社が神道葬を行った際の霊山の坂本龍馬・中岡慎太郎・藤吉の墓標で、木戸準一郎(木戸孝允)が涙して筆を執ったが、南岳も同じような墓標だったと思われる。
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この時遺体が埋葬されたのは以下の24名と推定される。
上山讃五郎、吉田順之助、十河三郎、石川厚狭介、伊藤京次、河上四郎、黒瀬千代太郎、植田瀧之介、山下翠、原川金蔵、後藤深造、宇佐川熊太郎、相木岡四郎、福島男也、尾川猪三郎、三浦龍輔、片山金治、藤村英次郎、石川伊三郎、所澤竹次郎、有田彦兵衛、入江勝馬、石川和三郎、佐伯鉄之進

また南岳墓所の入り口に燈籠が一対置かれた。
燈籠には長門游撃軍、慶應四戊辰三月日とあり、6名の献燈者の名が刻まれ、遊撃軍の好義司令・井戸小太郎、精兵隊一ノ伍・折本吉松などの名が見える。
墓所入口
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一対の燈籠
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そして、もともと毛利家と縁の深かった東福寺退耕庵が菩提所となり、以来、毎年正月4日を命日として、東福寺全山出仕の元で慰霊祭が執行されるようになった。

ところで、吉田松陰はかねて、京都に尊攘堂を建て勤皇の志士を祀りまた大学を興さんとしたが刑死し果たせなかった。品川弥二郎は、松陰が素志を述べた書簡を水戸で偶然に知り、師の遺志を果たさんとして、明治20年(1887)ドイツから帰国すると京都高倉通錦小路に尊攘堂を建造し、勤王志士の霊を祀り、志士の殉難の史料、遺墨、遺品などを収集し、祭儀を営んだ。この例祭は、弥二郎の死後も昭和21年まで続くことになる。
また、品川弥二郎は、防長と退耕庵との浅からぬ因縁に鑑み、明治27年(1894)に退耕庵維持会を作り後援していた。

そして弥二郎は明治33年(1900)2月に死去するが、同じ年の5月に南岳墓所において、三十三回忌が執り行われた。その際、木の墓標は石の墓標に取り替え、新たに墓標も加えて現在の48基となり、墓地も整備された。48基の中には、鳥羽伏見以外の戦いで亡くなった者や、大村益次郎襲撃に遭遇して闘死した静間彦太郎なども含まれている。
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その際、この墓石群の前面には、1基の大石灯籠が置かれ、また長州兵戦没者の功績を讃えた和文草書体文の「崇忠之碑」が建てられた。
明治戊辰の役戦死者三十三回忌の為に建てると刻まれた大石灯籠
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崇忠之碑は墓所入口を向いている
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明治44年(1911)5月に、退耕庵の山門前右側に、有志により「戊辰役殉難士菩提所」の碑が建てられ、防長殉難者菩提所であることを示した。
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大正6年(1917)の五十回忌の際には、退耕庵和尚の発願により、寄附を集め、東福寺境内の法堂の東側に「維新戦役忠魂之碑」が建立された。篆額は山縣有朋、撰文は三浦梧樓、書は野邨素介の手になる。
背面には、南岳墓所と同じ殉難者48名の霊名が刻まれている。
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七十回忌を前にした昭和11年(1936)7月には、京都防長会により、南岳墓所への本来の参道とは別にある、月輪南陵と仲恭天皇九条陵への御陵参道入口に、「右 維新戦役防長藩士墓所」の道標が置かれた。南岳墓所は、月輪南陵と仲恭天皇九条陵の間にあり、御陵参道は東福寺からはやや近道になる。
「右 維新戦役防長藩士墓所」
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慰霊祭は太平洋戦争中期に中止の已む無きに至り、戦争が終わると、戦後の混乱期に南岳墓所、霊山墓地、大江護国神社等は荒れ果てていった。それを見兼ねた五十部景秀和尚が山口県知事・田中龍夫に諮り、昭和30年6月に「明治維新防長殉難者顕彰会」を立ち上げて、山口県同郷会会長(大阪商工会議所会頭)・杉道助が初代会長に就任して、墓所を整備し、同年11月13日に「明治維新殉難者百年祭予修法要」を大々的に行って慰霊と顕彰を再開し、今日に続いている。
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「明治維新殉難者顕彰会」は、昭和36年(1961)11月に退耕庵の山門前左側に、京都・東京・大阪・尼崎・神戸の各山口県人会とともに、「退耕庵」の石標を建立した。
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昭和43年(1968)の明治百年にあたっては、南岳墓所入り口の近くに、京都市によって「鳥羽伏見戦防長殉難者之墓」の碑が建てられ、また毛利元道、岸信介、佐藤栄作、森田公平、田中龍夫、橋本正之等が記念植樹を行い、それを示す石柱が置かれた。
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また、「明治維新殉難者顕彰会」は、昭和55年(1980)10月に東福寺勅使門の右横に、南岳墓所への道順を示す「維新戦役防長藩士之墓所」の道標を建てている。
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防長殉難者の法要は、毎年10月第4日曜日に退耕庵の書院の北側の本殿「戊辰殿」にて行われる。ここには、48名の位牌が安置されている。
この戊辰殿は、退耕庵和尚が防長殉難者を永久に祭るに相応しい殿堂を建立したいと発起し、浄財を集め、昭和2年に竣工した。本堂ではあるが、その建立の意義を明らかにするため、「戊辰殿」と命名されている。
今年の法要は、11時から五十部泰至和尚による読経から始まり、出席者全員が焼香した。
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戊辰殿での法要が厳かに終わって、萩からの参加者と記念撮影
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次に、東福寺境内を通り、ただちに南岳墓所に向かう。

東福寺南端の六波羅門を出るとすぐ左の坂道を登り切り、そこから右にしばらく行くと本来の墓所参道があり、表の入口に通じている。今では、坂道を登り切ってから、やや左前方にある月輪南陵と仲恭天皇九条陵への御陵参道を上って、裏の入口に向かう人が多い。

48基の石列柱を前にして、退耕庵和尚による法要があり、続いて全員が焼香お参りした。
厳かな中で法要が終わり、まことにすがすがしい半日であった。
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参考: 明治維新防長殉難者顕彰会報、
     『京洛に於ける防長殉難志士顕彰之記録』(明治維新防長殉難者顕彰会)、
     『幕末維新京都史跡辞典』(石田孝喜)


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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です。

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