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zoom RSS 越前福井にて天狗党を訪ねる

<<   作成日時 : 2014/10/18 14:37   >>

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今年は、元治元年(1864)3月27日に「天狗党」が挙兵して150周年にあたる。
それを記念し、天狗党が西上途中で降参し壊滅した越前福井にて、県文書館「水戸天狗党 敦賀に散る」展が開催されている。先日、展示品を拝見し、福井での天狗党のゆかりの跡を訪ねてきた.。
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天狗党の挙兵は、幕末3大義挙として、天誅組や生野の変と並び称せられているが、その規模・犠牲者の数とも他を圧倒している。
幕末の水戸藩の犠牲者のうち谷中忠魂塔に祀られた人々だけで1,785名を数える。そのうち8割近くが元治甲子の変(天狗党の変)の殉難者。これには抗争相手の反対派の犠牲者は入っていないので、一藩の犠牲者の数としてはトータルで大変な数になる。

水戸藩は、幕末には独特の動きをした。
早くから尊王思想を掲げていたことでは時代の先端を行っていたが、明治初年まで内紛が続き多くの有為の人材を失い、そのためもあって維新後も時代をリードできなかった。
元々、親藩でありかつ思想が尊王であることから、ある宿命を負ってはいた。
第2代藩主徳川光圀が「大日本史」の編纂を始め、それが水戸学に発展する。
第7代藩主徳川治紀の時代には、『武公遺事』にて、治紀は「我らハ将軍家いかほど御尤の事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなハ少しも将軍家に従がひ奉る事ハせねぬ心得なり」と明言し、今は幕府も天子を敬う故に自分も幕府を敬う(尊王敬幕)と、三男の斉昭に述べている。

この尊王の思想が、幕末には夷敵打ち払い令と結びつき尊王攘夷の思想的バックボーンになっている。
しかし水戸藩は参勤交代を免除され、藩主は常に江戸にいて御三家の中でも将軍を補佐する立場にあり、この二面性が藩内を二分させ、藩内抗争が絶えず繰り返され、多くの人材が失われていく。

天狗党は、尊王攘夷論の立場をとる藤田小四郎が仲間とともに元治元年(1864)3月に筑波山で旗揚げするが、幕府の弾圧によって、攘夷の企てはあえなく失敗してしまう。挙兵の理由には、藩内外さまざまな要素と経緯が絡んでいる。しかし大本は、第8代藩主徳川斉昭の改革に対する藩内不平分子(反改革派)と、尊王攘夷の雄叫びを畏怖し敬遠する幕府の反水戸分子とが結合し、水戸藩の政権争奪が起こったことが大きな要因である。

幕府権力と結んだ反改革派が勢力を得てからは、藩内で安政戊午以来の恐怖時代が再現されていく。
その中で、挙兵に失敗した天狗党は大子村に軍を進め、武田耕雲斎、藤田小四郎などが今後の対応策につき軍議を開く。

議論百出するが最終的に、挙兵の志を朝廷に伝えるため千山万岳を踏破して京に上り、京都禁裏守衛総督である一橋慶喜の下に赴き、慶喜から朝廷に事情を訴え裁断を仰ぐことに決した。
62歳の武田耕雲斎を総大将とし、天勇・地勇・龍勇の三隊を田丸稲之衛門が指揮し、正義・義勇のニ隊を井田、朝倉が指揮を執ることとなり、五箇条の軍令を定めて、元治元年11月1日より規律正しく行軍を開始した。
途中各所で幕軍の追討を退けながら、大子村から下野国境を越え、那須、鹿沼、太田、下仁田、和田峠、下諏訪、美濃を経て、1ヶ月後の12月1日に岐阜の揖斐に達する。
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この頃、在京の水戸の勢力は、武田勢の西上が幕軍の追討に苦しむのをみて、幕府の手に委ねるのに忍びず、自らの手で鎮撫しようと徳川昭徳(のちの昭武)始め一橋慶喜に嘆願する。慶喜も朝廷に申出て鎮撫の命を拝受した。

揖斐では、西郷隆盛の秘命をうけた桐野利秋が一行を待ち受け会見を求めてきた。
薩摩藩として尽力することを約し、本道を経て入京を勧める。
しかし藤田小四郎等は一橋慶喜が鎮撫のため自ら大津まで出ようとしていることを聞き、桐野に謝絶し、道を北にとり越前に向かった。
一行約1,000人は、蠅帽子峠を越え越前大野郡に入り、今立郡池田、南条郡今庄から木ノ芽峠を越えて、12月11日敦賀郡新保に入る。
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ここからが、今回の天狗党ゆかりの地の越前福井での史跡めぐり。

まず、県文書館
展示内容は事前にHPで拝見していたが、原史料の現物を確認ができた。
実際に目で見るのと具体的なイメージとして記憶されるので、僕の場合はありがたい。

文書館内の展示室入口
展示場は広くなく展示物もあまり多くはない。
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展示資料は少ないが、越前福井での天狗党の動きが分る仕掛けにはなっていた。
たとえば、敦賀市立博物館蔵「水戸浪士騒動図」8枚が拡大複製されて展示されている。
現物はカラー
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もちろん「水府正士」とあり明治になってからの作図だが
天狗党が敦賀に入る前後から終焉までのポイントが簡潔に理解できる。

天狗党一行は、木ノ芽峠を越え新保に陣を構えるが、その前に、
元治元年(1864)12月9日に北国街道沿い今庄宿の造り酒屋・京藤甚五郎家に一泊している。
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12月11日には、難関といわれる木ノ芽峠を越え、新保に布陣する。追討軍は加賀藩を先峰に陣を固めて、対陣する。
写真は、武田耕雲斎が逗留した陣屋
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陣屋の内部
加賀藩の使者永原甚七郎らと何度か陣屋の書院で会談を行っている。
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天狗党は武力に頼らず西上のみを求め、加賀藩との間で交渉を重ねる。
しかし初めて、前方の葉原宿に討伐軍の先鋒の加賀藩兵1,000余名が布陣しており、その後ろには各藩の万余の討伐隊がいるのを知る。
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また永原甚七郎らとの交渉により、拠り所にしていた一橋慶喜が天狗党討伐軍の総督として琵琶湖北岸の海津(滋賀県高島市)に本営を構えていることを知った。武田耕雲斎を始めとする天狗党幹部は大いに驚き善後策を検討した。
11月1日に水戸藩大子村を出立してから40日が過ぎており、その間下仁田、和田峠での合戦を経て、豪雪の蠅帽子峠、木の芽峠の難所を越えてきたのは慶喜を頼ってのことだったが、その慶喜は討軍の棟梁になっているのである。
12月12日武田・藤田等は加賀藩を通じて、嘆願書を慶喜に呈出しようとした。尊王敬幕の至誠を吐露し、水戸における反改革派の暴政を訴え、初志の外夷掃攘の貫徹の念願を述べていた。しかし慶喜周辺の幕臣は冷酷にも武田の嘆願を拒否する。
追討軍は交渉に応じながら、一方で着々と総攻撃の準備を進めている。
新保陣屋で軍議が開かれ、最後は加賀藩に降伏文書を差し出して降伏する。

降伏した天狗党一行は加賀藩が預かり、敦賀に護送され本勝寺などの寺々に入る。
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加賀藩は一行を丁重に扱ったが、幕府から見ると天狗党は罪人であった。
永原甚七朗の慶喜への嘆願の効もなく、元治2年(1865)1月29日、幕府は加賀藩から天狗党一行を引き取ると、牢として鰊蔵を16棟借受け、押し込めてしまう。これは諸藩総指揮の役にあった若年寄田沼玄蕃頭意尊のなせることであった。祖先・意次の汚名を雪ぐ好機として徹底ぶりを発揮する。
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鰊蔵は、今では2棟残るのみだが、当時の面影をみることができる。
一棟は水戸に移築され回天館となり、一棟は松原神社の境内に移築され水戸烈士記念館となっている。
回天館は内部は当時の面影を残していないが、水戸烈士記念館は原型を変更することなく移築され、昭和29年10月10日の烈士90年祭に落成した。
この蔵には60名が押しこめられ、過酷な環境のため14名が病死している。
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内部を拝見させてもらうには、鍵を借りて自分で開けなければならない
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田沼は元治2年2月1日より永覚寺に仮白洲を設け、数人ずつ形だけの取り調べを行う。尋問が一つ終るとすぐに斬首が宣言された。
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永覚寺の「浪人騒動決断白洲之址」碑、水戸浪士処刑百年忌の昭和39年11月22日建立された
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天狗党には少年も多く参加していた。長男は斬首を言い渡されていたがあまりにもむごいと、永厳寺の住職が15名を仏門に入れるとして引き取る。今の住職に確認すると、公称15名だが実際は25名を引き取ったとのこと。但し、裏の山に陸軍の通信部隊がいて空襲を受け、資料はすべて焼失している。
永厳寺参道
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永厳寺
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天狗党一行のうち353名が5回に分け、来迎寺にて処刑される。
来迎寺表門(門は移築された敦賀城中門)
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この来迎寺の西隣の来迎寺野は、敦賀郡中の葬墓処・仕置場でもあり、鞭打ち刑や斬罪が執行された。
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断罪の日付と人数には異説があるが、「水戸藩史料」には、2月4日24名、2月15日135名、2月16日102名、2月19日75名、2月23日16名、計352名とある。

処刑場には、遺骸を埋めて土盛り、方12間高さ8尺西面して13基の墓が建てられた。
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天狗党の終焉の地・越前敦賀では、毎年10月9日と10日に、水戸烈士の遺徳を偲び、法要と慰霊祭が行われている。
松原神社と烈士墳墓の案内図
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巨大な、「水戸烈士追悼碑」、昭和16年に敦賀の一民間会社が建立している
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武田耕雲斎等墓域入口
この中で、10月9日に墓前祭が行われる。今年は150周年墓前祭があり、幕はその準備
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武田耕雲斎像
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お墓
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松原神社
毎年10月10日に神社で例祭りが行われる。
これは、明治11年10月10日に明治天皇が北陸巡幸に際して、武田耕雲斉以下の刑死を憐みあらせられ、祭祀料を御下賜せられたことによる。
今年は150周年にあわせ、改修工事が行われていた。
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天狗党の最後の処断について慶喜はどこまで深くかかわっていたのか?、明確な答えはまだわからない。
とりあえず、今は名越時正氏の言を借り、
「朝廷から鎮撫の命を拝した時、朝命は必ずしも追討に及ばぬことを仰せ出されていたが、幕臣譜代の嫌疑を受けていた慶喜は、武田勢を庇ばえば尚一層の不審と疑惑を受けることになる。その上禁門の変後の情勢は攘夷党に全く非であり、朝廷も横浜鎖港は長州征伐終了まで保留するとの御沙汰を幕府に下されたのであるから、武田勢の念願とする攘夷も今やその支えを失うごとき場合であった。慶喜ももとより、武田勢に重罪を課する意は毛頭無いが、勢いその決断は鈍らざるを得なかったのである」
にとどめておきたい。

参考: 県文書館「水戸天狗党 敦賀に散る」展配布資料、「図説福井県史」、
     名越時正 「元治甲子の水戸」、ブログ奥の細道漫遊紀行

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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です。

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